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面白うて、やがて哀しき

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【写真左】
新選組  黒鉄ヒロシ著 PHP文庫
ISBN4-569-57352-5  2000年1月初版(元版は1996年12月刊)
装丁/神長文夫
【写真右】
冗談新選組 みなもと太郎著 イースト・プレス刊
ISBN4-87257-398-6  2003年12月初版
装丁/鈴木成一デザイン室

 
 どんな小さな本屋に入っても、どこでも「新選組」フェアをやっているのには閉口する。というか、いま京都市内で「誠」の文字を見ない方が珍しい。古いポップスが、テレビドラマの主題曲に使われただけでCDセールスを極端に伸ばしたりする現象もふくめて、なるほどテレビってのは日本経済の一端をかいがいしく担っているのだねえ。余談だけど例のクイーンのCDは半年後、いやあと三ヶ月後には、新譜店よりも中古店の方でたくさん売られている気がするのだが、どうか。ともあれ、あいかわらずバブリーな国民性ではある。バブルというより瞬間湯沸かし器と言う方が適切かもしれないが。

 
 …という悪態はさておいて、『冗談新選組』は、新撰組がテレビドラマの題材にならなかったらまず出版されなかっただろう一冊(初出は「週刊少年マガジン」1972年)で、ということは来年には入手がひどく困難になっているかもしれない。だからというわけではないのだが、とりあえず買ってみた。
 いわゆるマンガ評論家と呼ばれる人たちには『風雲児たち』をホメる向きがずいぶん多いが、どうも私はアレが苦手なのだ。お勉強としてはたしかにいろいろタメになる内容なのかもしれないが、マンガとして楽しむぶんには、どうにも絵が安いのが好みじゃない。で、この『冗談新選組』のオビに「三谷幸喜、愛読。NHK大河ドラマ『新選組!』の原点」などと書かれていると、そっか、だからあのドラマも安いんだぁ、などと思ってしまう私なのだった。もっとも、脚本家の狙いははじめからその安さにあると思われるのだが。
 
 表題作にはこれ以上の感想はないのだが、同書の後半には〈論文形式牽強付会マンガ 仁義なき忠臣蔵〉(初出は「歴史読本」1999年)というマンガとエッセイが一緒になった作品が収録されていて、そのエッセイパートが、私にはいちばん面白かった。江戸時代、幕府に理不尽な目にあわされた藩や大名はたくさんあったろうに、どうして播州赤穂だけが「討ち入り」という「武力抵抗」を示したのか? という疑問と、それに対する作者の考察にはなるほどと思わせるところが多い。著者の考察はさらにテロとは何か、という方向に向いていき、最終回には「テロリズム考」と題する文章が寄せられている。その一節から。

 真面目な、正義感のある人間であれば、テロは必ず一度はたどり着く思想であると思います。人間のみが持つことのできる純粋さではないかとさえ考えます。
 しかし、それを実行に移したとたん、人間は何かを踏み越えてしまうと思うのです。人間たることを否定する何かを。(pp.189-190)

 
 黒鉄ヒロシはここに挙げた『新選組』よりも後の作品『幕末暗殺』(1998年)の方がよりいっそうテロ話なんだが、いずれにせよこの人の描くマンガは、人間の行為がシュールにぶっ飛ぶさまが圧巻で、ギャグとシリアスが渾然一体となっていくのが面白い。喜劇と悲劇は表裏一体であることが、まざまざと実感できるのだ。で、上の「テロリズム考」に呼応するかのような一節を、PHP文庫版『幕末暗殺』のあとがきから引いておく。
 「暗殺行為」のバックボーンも、更には血も肉も、元はと言えば「物語」を創る言語から発している。
 この言葉に因って出来上がった体質が興味を示す「暗殺」が変態的であるというのなら、言葉自体が大昔に変態的な成分によって醸成されているからではなかろうかと弱く反論しておきたい。(p.515)

 テロも暗殺も、人間的な、あまりに人間的な思想であるとのみなもと・黒鉄両氏の認識には、賛同せざるをえない。ただし、それが行為になってしまえば、たちどころに「非人間的」に転じてしまうという指摘にも。
 なんだか哀しい話だが、しかしそれを哀しいと思えるのもまた、人間なのでありますね。

2004 02 09 [booklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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