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日本にプロ野球は必要か?
オリックス・ブルーウェイブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発して、反対運動からこの際1リーグ制に移行してしまおうという画策まで、連日さまざまな動きが報道されてます。よほどこの問題に深い関心がないと、ちょっと追い切れないほどです。
新聞を読む限り、プロ野球の全てのオーナー企業の考え方が、客も入りテレビ視聴率も良好な一部「勝ち組」の論理で推し進めようとしているのは明らかで「ワシらのやることに選手もファンも口を挟むな」という、ひじょーに傲慢な態度が見え隠れしているのにむかっ腹が立ちますが(なんだかレコード輸入権問題とダブらせちゃうのは私だけ?)、実は私は、今のプロ野球がどうなろうと知ったこっちゃない、と思ってます。
チームを減らさないと生き残れないという意見、野球人口の拡大のためにもチームは減らすべきでない、逆にどんどん増やすべきだという意見、どちらもなるほどなぁ、と思うんですね。
で、じゃあオマエの意見はどうなんだと言われると、うーん、そもそも「プロ野球」って、いったいどれほど必要とされてるんでしょうか。
強いていえば、サッカーのように「地元密着型チーム」が全国に満遍なく存在している状態の方がより健康的だなあ、とは思います。でも、日本の野球界って、すでにそうとう偏ってますよね。それを、今さらエイヤッと大改革ができるのかどうか。
だって日本の野球って、一般的に東京読売巨人軍と春・夏の高校野球だけがやたらに人気が突出しているでしょ。
それってマスメディア(読売新聞社、毎日新聞社、朝日新聞社)が一枚噛んでるモノ以外は「あまり注目されない」ってことでしょ(セ・リーグのもう一方の人気チーム、阪神タイガースについて言うと、ファンの大半はアンチ・ジャイアンツで、つまりは巨人軍を成立させるための一要素にすぎない)。
マスコミもまた営利企業なんだから、自社の「商品」を真っ先にアピールするのは当然、という「常識」が180度ひっくり返りでもしないかぎり、この体質は永遠に不変でしょ。
新聞社の野球報道ってのは、だからジャーナリズムなどとは到底言えなくて、ただのコマーシャルでしょ。
もちろん日本には熱心なプロ野球ファンがたくさんいると思うんですが、かといって年間135試合だか140試合だかを毎日毎試合、球場の隅々まで全て埋め尽くすことは絶対に不可能です。正味のトコロ「野球ファン人口」ってどれくらいなのか全く知らないんですが、「プロ野球縮小化」路線を進めたい人たちは、おそらくそのへんはよーくわかってるんだと思います。
サッカーみたいな「オラが町のチームを応援するぞ」っていう「地域密着型野球」は、なぜか高校野球の専売特許になっちゃってますね。かわいそうなのが社会人野球と大学野球。だって、社会人野球の「都市対抗」が全国的なトップニュースになったことってあります? あれだってたしかマスコミ=毎日新聞社が噛んでるはずなんですけど。
そこへいくと、高校野球は「プロ野球」だと思うんですよ。必ず全国放送やりますし、集客も上々。ま、新聞社がスポンサーでなければここまで人気を集めてなかったでしょうけど。毎回よくもまあ「ドラマ」を作るなあとも思いますが、そのへんの「演出」はマスコミのもっとも得意とするジャンルですからね。そういう商売上手さも含めて、高校野球はプロ野球です。
結局、野球というイヴェントは短期集中開催にするのが、もっとも日本人向きなんではないかな。甲子園大会を見てるとそう思います。短歌や俳句じゃないですが、ほどよいフォーマットでピシッと短くまとめる、っていうのが日本古来の美学ではないかと。だから年間140試合ものんべんだらりとやってること自体がマチガイで、みんな飽きちゃってるんだと思います。
日本人は、実はそれほど野球が好きではないのではないか。
日本人が好きなのは「プロ野球」ではなくて、「マスメディアを通じて一斉に同じ話題を提供してくれるイヴェント」なのではないのか。
中身は別にサッカーでも格闘技でも連続ドラマでも、なんでもいいわけで、「昨日のアレ、観た?」という話題さえ提供できればそれでOKなんじゃないか。
「かつて、野球が日本の国民的スポーツだった時代があった」というのも少し違って、「かつて、みんなの共通の話題が野球しかなかった時代があった」と言う方が正しいのではないか。
日本野球の大改革が本当に必要だというなら、これは単にプロ野球だけの問題ではなく、学生野球から社会人野球までシームレスに考えていかないと無理でしょう。なのにいっかなそんな声が聞こえてこないのは、やっぱり「プロ野球」って、実はそんなに必要とされてないんじゃないか。で、「必要とされてない」根拠ってのが、チームオーナーがよく口にする「儲けにならん」という言葉だったりするんですね。「儲からないなら、やめとけ」って言うのは経営者の論理、経済の論理であって、スポーツ=文化の論理ではないんですが、何度もくり返し刷り込まれるうちに「儲からないもの=あってはならないもの」と思ってしまったりする。だけど本当は、われわれがそこまで親身になって経営者の立場でモノを考えなきゃなんない必然性って、どこにもないはずなんです。株主なら、まあ、別ですが。
そもそも、オーナーの声がやたらに報道されること自体、おかしいと思う。「金は出すけど口も出す」っていうのは、かつては非常に野暮な話だったんだけどねえ。で、声のでかいオーナー連中にいいようにあしらわれているコミッショナーっていうのも、どうよ。あれじゃコミッショナーなんて必要ないじゃないの。
たしかにスポーツチーム経営は、ボランティアではないでしょう。けれども「経済の論理」だけで運営されるべきものでも、絶対にないはず。
つまるところ「スポーツは文化である」という視点が決定的に不足しているのが、野球界を混迷させている諸悪の根元ではないでしょうか。
2004 06 28 [living in tradition] | permalink
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