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横山大観をどう観るか

 京都国立近代美術館で、横山大観展が開催中だ。

横山大観展
●長野展/5月18日〜6月20日
 水野美術館

●京都展/7月2日〜8月8日
 京都国立近代美術館

 京都での大規模な回顧展としては、平成5年(京都文化博物館)以来になるだろうか。昭和55年の京都市美術館展とあわせ、これで大判の図録が3冊も私の手許に集まったことになる。やはり人気作家と言っていいんだろう。
 
 今回もまた、《屈原》(明治31年)や《無我》(明治30年)、あるいは重要文化財の《生々流転》(大正12年)など、主な代表作・人気作はソツなく網羅されている。
 私が好きなのは晩年に近い作の《或る日の太平洋》(昭和27年)だ。あっちこっちで破綻を来し、描いてる本人ですらもうワケがわかんなくなってしまっているところが、好きだ。筆遣いのディテールをいちいち追って飽きず、今回も結局この絵の前がいちばん滞在時間が長かった。
 
 
 …というだけならわざわざブログに書くこともないのだが、帰りぎわにショップを覗くとちょっと気になる本が並んでいた。 
 
 

taikan_hon.jpg

 
 
横山大観 巨匠という仮面
尾竹俊亮著 新風舎刊(2002年6月初版)
ISBN4-7974-1958-X 小山俊一・小澤誠(graph range)

 表題から類推できるとおり、ひとことで言えば暴露本である。面白そう、と思って読み始めたのだが、途中で食傷気味になった。目次から章題を引用してみる。
 

【序】飾りを剥いで実像へ
一章 天心に従った歴史画/初期美術院設立まえ
二章 洋画をまねて悪評判/初期美術院期
【総説】美術院は超万能なり/天心と大観の画壇支配
三章 絵の質より根まわし/文展審査員期
四章 トップで試される画力/再興美術院期・その一
五章 国内外の強者につく/再興美術院期・その二
六章 自然美まで戦争の具に/対中・米戦争期
七章 旧作を縮めて再生産/戦後の院展へ出品
【後説】重複でしぼむ絵の心——誰も触れない画力不足

 こういう本が横山大観記念館の協力のもとにつくられ、しかも当の大観展の会場で販売しているという事実の方が、むしろ興味深かったりする。
 
 本書は大観が現役で大活躍していた時代の新聞雑誌を丹念に調べ、当時から必ずしも評価の高くなかった大観が、その政治力にモノを言わせて、次第に押しも押されもせぬ「巨匠」にまで登りつめるさまを細かく描く。批評家だの評論家だのという人種は不思議なもので、相手が偉くなるととたんにその作品を持ち上げる。「上手い」とは書けないから、それ以外のいろんな語彙を駆使し、ゆえに大げさで高圧的なな大観像が次第に形成されていく。…本書の「あらすじ」を強引に約めると、こうなる。
 とうぜん、著者の手にかかると具体的な作品評価にも容赦はない。同じく目次から抜き書きしてみると、たとえば重要文化財の《生々流転》は「寓意はいずこの長々しさ」だし、ファンの多い《屈原》は「あらぬ目つきの自殺者」ということになり、《野の花》(昭和11年)は「野良着をきるホステス」、《被褐懐玉》(昭和24年)に至っては「気味わるい男ふたり」になってしまう。
 
 こうなるともう、辛口というよりも、もっと深い怨念がこもっていそうである。恨み骨髄、といった風情でもある。
 それもそのはず、著者の祖父たちには尾竹国観、竹坡、越堂といった画家がいるのだ。いずれも、20代から40代の大観とライヴァル関係にあり、破れ、結果日本美術史の表舞台から消えていった画家という。著者は本書でその無念を晴らそうとしているのである。
 
 
 しかし、著者にとっては残念なことに、教科書的なごく一般的な価値評価では、やっぱり大観はまだまだ「偉いヒト」と言われ続けることだろう。「絵が上手い」イコール「偉い」とはならなかったところに、近代日本美術史の不幸がある…とまとめてしまいたいところだが、ここでふと思うのは、絵の上手下手ってなんだろう、ということである。
 
 本書を見たから言うのではないのだが、大観の作品が「評判ほど上手でもない」というのは、実はさほど意外な説ではない。美大生あたりの間では、古くから半ば常識だったはずだ。人物の表情が硬く類型的で、画題や構図に斬新さがあるわけでもない、というくらいなら画学生ならずとも素人だってわかる。ある意味、わかりやす過ぎるくらいだ。
 にもかかわらず、没後何度目になるのか知らないが、大規模な回顧展が国立の美術館で開かれ、相変わらずけっこうな数の客が詰めかけている。「画力よりも政治力の人だった」横山大観だからこその奇景だろう、と著者なら言いそうであるが、現代の観客にとっては、大観が上手であっても下手であっても、もはやどうでもいいことなのかもしれない。こう書くとミもフタもないのだが。

 権力を手に入れ「偉いヒト」となった大観は、しかし実は絵が下手だった大観でもあって、さてそれでは我々は目の前にいったいナニを観ているのか。作品を眺めるより解説プレートを読んでいる時間の方が長くて、画題や来歴をテキストで知ることに熱心な観客は、しかしたとえ「この絵はホントは駄作だよ」と言われても、「ふうん、そうなの?」で済ますような気がする。「でも、こうやって大きな美術館で展覧会をやるほどの人なんでしょ?」と“反論”したりもするかもしれない。そう、専門家的な「上手下手」と一般的な「人気のあるなし」とは、必ずしも一致しないのである。
 
 
 冒頭にも書いたが、私は大観の作品のなかでは《或る日の太平洋》がいちばん好きである。あっちこっちで破綻を来し、描いてる本人ですらもうワケがわかんなくなってしまっているところが、好きだ。
 『仮面の巨匠』によれば、この作品「も」先行作品の模倣であるという。京都の狩野派の作品に、画題も構図もそっくりそのままなのがあるらしい。著者によれば、虚心に観ればどちらがすぐれているかは誰にも明らかだというのだが、同書に「もと絵」の図版もないし、読者としてはこの場では判断のしようがない。それよりも、ふつうの観客は必ずしも「上手下手」が絶対無二の評価基準ではないことの方が重要である。いくら画面が破綻し硬直化し色がくすみ筆致が荒れていようとも、結果的にそっちの方が「面白ければ」OKでもあったりするのだ。
 
 
 日本美術界の古典的なアカデミズムや権威主義はここ数十年のあいだにぐずぐずと崩れ落ち、ほとんど見る影もない。今なおその呪縛に囚われていることは、たぶん不幸である。『仮面の巨匠』を途中で読む気が失せたのは、そんな不幸を目の当たりにしたからでもあるかもしれない。
 
 つくづく、絵を観るというのは難しいものである。  

2004 07 18 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

 そういえば「絵はがき用」と評価されることも多い、現代の巨匠もいらっしゃいましたね。
 パフォーマンス系では、芸が下手であっても、人材育成やその分野の振興に功績があれば、充分に評価されるし、絵画だって、それでいいと思うんですけどねぇ。
 やっぱし、モノに値段が付く芸だとそういう訳にはいかないのでしょうか?

posted: (2004/07/19 5:55:48)

 こんにちは。コメントありがとうございます。
 
 芸術の価値評価ってわかんないですよねえ。作家存命中と死後とで評価が180度変わってしまう例だってたくさんありますし。
 ひとつ思うのは、世俗的なしがらみや権力構造やらといった澱を沈めて、純粋に作品だけと対峙するようになれるまでには、やはりそれなりの時間がかかるのかもしれません。今から50年後100年後には、大観と国観の芸術的立場が逆転している可能性だってあるのかもしれないですし。

 「売れる」芸術が低く見られがちなのは、清貧をよしとする倫理観のあらわれなのかもしれません。「芸術家ってえのは不遇と失意の内に死んで欲しい」というふうな、メロドラマちっくなロマンチシズムが、依然としてわれわれの中に根強いのかも。
 天才でカリスマ性もあってもちろんお金も稼いで、っていうのは、たとえばスポーツ選手なら許されるのに、まったく画家は損ですねえ(笑)

posted: (2004/07/19 12:29:30)

 

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