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ユニバーサルデザインをめぐるふたつの定義

 d.e.plus:とても気になったエントリーを2点経由で、FlowerLounge :「自立」の限界——ユニバーサル・デザインに潜む差別とバリアフリーの欺瞞を興味深く拝読しました。ユニバーサル・デザイン」とか「バリアフリー」、あるいは「自立支援」などの言葉の裏にひそむ差別性や欺瞞性について、たいへん丁寧な考察がなされている記事です。
 
 そもそもユニバーサル・デザインとは何でしょうか? FlowerLoungeさんはユニバーサルデザイン・ネットワーク・ジャパンのサイトから以下の「定義」を引用されています。
 


ユニバーサルデザインFAQ
ユニバーサルデザインの7原則
 ユニバーサルデザインは、ノースカロライナ州立大学デザイン学部ユニバーサルデザインセンターの創設者である故ロン・メイス氏によって提唱されました。同センターではユニバーサルデザインについて、次のような定義をしています。
「すべての人にとって、できる限り利用可能であるように、製品、建物、環境をデザインすることであり、デザイン変更や特別仕様のデザインが必要なものであってはならない。」

また、ユニバーサルデザインセンターでは、ユニバーサルデザインの7原則もまとめています。
 原則1:誰にでも公平に利用できること
 原則2:使う上で自由度が高いこと
 原則3:使い方が簡単ですぐわかること
 原則4:必要な情報がすぐに理解できること
 原則5:うっかりミスや危険につながらないデザインであること
 原則6:無理な姿勢をとることなく、少ない力でも楽に使用できること
 原則7:アクセスしやすいスペースと大きさを確保すること

 FlowerLoungeさんは、一般的に「ユニバーサルデザイン」と見なされているモノを具体的にあげて、こう結論づけておられます。
 

こう考えていくと、すべての人たちが使える、本来の言葉の意味通りのユニバーサル・デザインなんてものは存在しなくて、ロン・メイス氏の提唱通り「すべての人にとって、できる限り利用可能である」ことが、ユニバーサル・デザインなのだと解る。

なんにでも万能なデザインは存在しない。一定の人がワリを食ったり、デザインでまかない切れなかった不足分を補う互助の精神の必要性をこそ、もっと周知すべきではないだろうか。
   だとすると、<ユニバーサルデザイン>って、ともすれば絵に描いた餅、机上の空論になってしまうんでしょうか?

 
 

 「ユニバーサル・デザインはメイス教授が世界で初めて提唱した概念という定説」に異を唱える人がいます。日本における「ユニバーサルデザイン」の仕掛け人のひとりであり、グッド・デザイン賞の審査委員長もつとめておられた、デザインディレクターの川崎和男さんです。

 氏は平成14年の鯖江市での講演で、こう述べています。
 

これは万人に向けて万能な機械ではありません。オーダーメード的に、その人に向けて、その人が必要としているデザイン、マスコミも大きく間違っているのは、万人に向けて万人のためのデザインがユニバーサルデザインだと考えととること自体が間違いである。

 引用元は講演記録をそのまま書き出したページで、お世辞にも読みやすさに配慮された編集デザインとは言えませんが(笑)、それはともかくとして、ここでの川崎さんのお話は、上のUDNJで紹介されている「定義」と真っ向から対立するのがたいへん興味深いです。「7原則」についても、日本式に言い替えなければならないとし、講演で詳しく解説されています。なお、この「川崎定義」と「メイス定義」をわかりやすく対比させた表が、鯖江市のユニバーサルデザイン課のページにあります。 リンク元のページではメイス案と対比できるよう表組みされているんですが、ここでは川崎案のみを抜き書きしてみます。


原則1:使用条件が元来不平等であることを認識すること
原則2:不自由性と拘束性を機能的に解決できること
原則3:操作の複雑さを克服することによる鍛錬や達成感
原則4:すべての情報の公開性は適切な段階を追うこと
原則5:安全性だけでなく安心性こそを第一にデザインすること
原則6:必要な体力保持のための身体の鍛錬を仕組むこと
原則7:狭い空間では効率の良い省スペース性に配慮すること

 
 私は決して川崎和男さんの良い読者ではないし、氏の主張には時についていけなかったりもするんですが、ことこの件に関しては、UDNJよりも川崎さんの「定義」の方が実にしっくりと腑に落ちます。メイス案の口当たりの良さに比べて、川崎案は一見すると「ちっともヒトにやさしくない」んですが、対比表をしばらく眺めているうちに、メイス案のほうがとても「おためごかし」なものに見えてくるから不思議です。非常に感覚的な評しかたをするなら、ふたつの定義は天と地ほどの差があって、メイスのそれが「天」から、つまり高みから放り投げられたものとすれば、川崎案は「地」を這うようにして積み上げられた、そんな存在感というか確かな実感めいたものを感じます。
 
 
 メイスによる定義のうち、私がなににいちばん引っかかるかといえば、やはり「デザイン変更や特別仕様のデザインが必要なものであってはならない。」という箇所でしょうか。メイスは<原則2>で使用上のフレキシビリティを求めているんですが、それでいて特別仕様デザイン(つまりカスタマイズ)はダメだという。ここに矛盾を感じます。
 どんなモノであれ、一定の仕様に基づいて生産された製品である限り、それを使用するヒトはその「一定の仕様」に合わせる必要があります。いわゆる“健常者”と呼ばれる人は、自分の身体を製品の仕様に合わせてやることが多少なりとも可能なんであって、それはつまり「モノがフレキシブルじゃないんだからヒトがフレキシブルになるしかない」ということです。
 で、ヒトがフレキシブルでない場合、今度はモノの方がフレキシブルにならなければ、等式は成り立たないはずなんですが、メイス定義ではモノそれ自体にはフレキシブルさを認めていません。あえていうなら、単に間口を広げているだけです。そのくせ、使い方にはフレキシブルさを要求しているわけですが、これはずいぶん無茶な要求です。
 どのみち、モノのフレキシビリティには限度がある。ならば、そこから先はモノをそれぞれのヒトの都合にあわせてカスタマイズする方が手っ取り早いし現実的でもある。私は川崎案をそういう風に解釈しました。
 もっとも、このあたり、おそらくはメイス教授も無理があるなと感じていたのでしょう。「できる限り」という言い訳がましい言葉は、だからこそ付いたのだと思います。つまり、メイス氏の定義はあくまで理想論であって、必ずしも現実的というわけではない。「ユニバーサル・デザイン」が公共事業のスローガンになりやすいわりには実体が伴いにくい、またFlowerLoungeさんご指摘のように現実として必ずしもうまく機能していないのは、ひょっとするとこういう部分にも要因があるのかもしれません。


 
 「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」——トルストイ

2004 07 07 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

「design conscious」カテゴリの記事

comments

本題から逸れて申し訳ないんですが、とんがりやまさんのような方がまさに答えるのにふさわしい質問ではないかというものをよそで見つけたもので。(今日始まったサービスです。)
http://bk1.hatena.ne.jp/1089190667

ところで、この頁の最初の引用の次の行から、全体が半文字づつ左にずれているように見えます(Windows 版IE にて)。私のとこだけの現象かもしれませんが。

posted: Micheal (2004/07/07 18:12:19)

コメントありがとうございます。
はてなの方には、ご質問者のお役に立つかどうかわかりませんが、ひとつ投げておきました。
>全体が半文字づつ左にずれている
うーむ。何故なのか、ちょっと謎ですねえ。他に同様の方はいらっしゃいますか?<ALL

posted: とんがりやま (2004/07/07 23:45:31)

私には車椅子を使っている友達が何人かいるんですが、そのひとりと、都内の映画館に行ったことがあります。
もう、二度と行きたくありません(笑)。
駅の階段に設置してある身障者用のエスカレータ、あんな恥ずかしいもの、使えると思います?
みんなが珍獣でも見るような、でも、関わりあいになりたくないような目で見るんです。
私も友達も慣れてるんで、「殿様みたい~」とか笑っておちゃらけてしまうけど、耐えられない人はあれはツライでしょうね・・・。
たまたまその時は、通りがかりの男性と駅員さんが車椅子を持って運んでいただいたので、エスカレーターを使う必要はありませんでしたが。

私のマンションもバリアフリーで玄関からリビングまで車椅子のまま入れるんですが、その玄関まで行くのがもう大変。
踏切越えて坂登って、歩いてるときは気づかなかった小さな段差に蹴つまづき・・・。
駅から家まで着いたらもう汗ビッショリ。
(車椅子ってちょっとでも勾配があると、ものすごく重いんですね)
もう二度と来るな、と思ってしまいました(笑)。

ノーマライゼイションとか、バリアフリー、そしてユニバーサルデザインなど、いろいろ美しい言葉が作り出されてはいます。
でも結局のところ、ちょっと誰かが手を貸したり声をかけるだけで済む場合もあるんですよね。
道具や機械にまかせっぱなしではなく、ちょっとした気遣いが一番大切なんじゃないかなあと思うんですが、まあ、実際は難しいでしょうね。
みんな忙しいし。

ところで、ロン・メイス氏言うところの7原則の定義は、個人が使う器具類よりも建物の設計とかストリートデザインとかそのくらい大きなもののことかなと思うと、納得できるかなと思います。
看板や標識(サイン類)が分かりやすく、通路や歩道等も余裕を持って作られ、余計な障害物などのない建物やストリートは健常者にとっても障害者にとっても使いやすいものになると思われます。

長文失礼しました・・・。
(あら、本当に半角切れてますね、なんでだろう?)

posted: しのぶ (2004/07/08 1:04:23)

 コメントありがとうございました。

 私の知人にも車椅子のひとがいるんで、街の不便さや危険さはよくわかります。駅のスロープなんかでも、なめとんかいっ!っていうくらい遠回りさせられたりしますし。
 
> 看板や標識(サイン類)が分かりやすく、通路や歩道等も余裕を持って作られ、余計な障害物などのない建物やストリート

 「ユニバーサルデザインな標識を設置したら、我が町が明日からでもユニバーサルデザインの街になる」と思ってしまいがちなところに、いちばんの罠があるように思うんです。モノはあくまでモノであって、それをどう使うかはどこまでもヒトの問題であるのに、どうもそこを忘れがちになってしまう。

 メイス定義と川崎定義の話は、たとえば『ドラえもん』として考えてみると、ちょっと面白いかもしれません。「ドラえもんさえいてくれたら、ボクはなんにもしなくていいんだ」と思っているのび太と、「のび太くんを自立したヒトにさせるために苦労してるのに、彼はちっともわかってくれない」と怒っているドラえもん。
 ドラえもんの出してくる道具の数々はどれもすばらしく便利ですが、のび太くんがひとりで使うといつも大失敗します。たとえどんなに便利な道具でも、誰か(ドラえもん)のこと細かなフォローが常に必要である、という「お約束」があのマンガのベースにありますが、実はこの世界観は川崎さんの考えに近いんじゃないかと思います。

posted: とんがりやま (2004/07/08 14:25:53)

 

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