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[BOOK]:ナマの京都

 
 

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 女性漫画家(あるいはイラストレーター)による、脱力系のマンガ+エッセイ、しかもテーマが京都。となると、いかにもウケ狙いでえすと言わんばかりの本だ。正直なところ、わたしはそのテはどちらかというと苦手である。なのに、この本は書店でみかけてつい手にとって、ついふらふらとレジに持っていってしまった。電車の中で笑いをかみ殺すのに苦労しながらあっという間に読み終えて、買ったのは正解だったな、としみじみ思った。
 
●ナマの京都 
 グレゴリ青山/メディアファクトリー/2004年7月初版
 ISBN4-8401-1114-6
 装丁:グレゴリ青山+中井有紀子(ソベイジ グラフィック)
 
 
 女性の本音丸出しのマンガエッセイにはなかなか共感を覚えることのできない私が、なぜこの本には面白さを感じたのだろうか。答えはもうひとつのキーワード「京都」にあるのかもしれない。なるほど私は、この本には真実が書かれている、と真っ先に思った。しかし厳密に言えば、私にはこの本を評する資格は、ひょっとするとないのかもしれない。
 私は京都生まれの京都育ちである。今住んでいる場所こそ京都市に隣接する別の市ではあるが、生活の大部分は京都市内にある。自分の住んでいる街の市議会選挙は誰に投票すればいいのかさっぱり実感がわかないし、市民税などは京都市に払った方がより現実的だろう。そういう意味で、やはり私は京都育ちの京都在住、と言っていいのではないかと思っている。
 逆に言うと、京都から離れて暮らしたことがただの一度もないのである。自分の生まれた街から一歩も出ずに大人になってしまった者が、自分の街をどこまで冷静に観察できるのだろうか。私にはそのへんがはなはだ心許ない。だから、この本に対する評価を上手くできる自信が、まるでないのである。
 
 
 ところで、京都本といえば、美しすぎるカラー写真とボキャブラリーの限りを尽くした美辞麗句を並べるたぐいの礼賛系が主流で、その周辺に嘲笑系がスパイスのように存在する。この本もオビに<笑える京都本>とあるから、狙いとしては「笑ってもらってナンボ系」だろう。キレイで「はんなり」していて上品そうに見えるけれども、実はこんなに間抜けでヘタレで「いけず」なのよぉ、という風なことを、著者独特の気の抜けたタッチのマンガと文章で綴る、そんな本である。
 
 ただし「ただそれだけの本である」と言い切れないところが、ここにはあるように、私には思える。このへん、実は説明するのが非常に難しい。京都人ふうに言うと「こんなん、よそさんにわかってもらえへんやろなぁ」である。
 たとえば冒頭の【京いけずの章】。著者が高校時代に春休みのバイトで行った<高級料亭>での実体験を、面白おかしく描いているわけだが、このマンガには誇張などほとんど含まれていないと、これは私の直感にすぎないのだが、そう思う。そして、もっと重要なことは、ここで繰り広げられる「いけず」の大半は、私もかつて受けたことがあるし、誰かがされているのを横で見ていたこともあるし、あまつさえ、自分から誰かにしたことだってあったはずの種類のものだ。つまりは、ごくごく日常的な風景なのである。
 「いけず」は標準語では「いじわる」になるのだろうが、しかし「いけず」と「いじわる」は、断じて似て非なるものである。強いて言うなら「いけず」の方がより陰惨である。
 一方が旅行者などの「よそさん」である場合、京都人の「いけず」はもうひとひねりし、一見「いけず」に見えないかたちでおこなわれることになる(本書31〜33ページ「よそさんの知らない京都語入門」の「はる」「よる」「もっさい」などもその一例。ただし、同種の例として巷間名高い「京のぶぶ漬け」は、少なくとも私は目撃したことはないし、当然この本にも出てこない)。<高級料亭>で著者が受けた「いけず」は、だから、著者が京都人だったからこそのものではないかという気がする。

 「いけず」は「いじわる」より陰惨で、だからそれを受ける側は精神的にたまったものじゃないのだが、京都で暮らすとはこういうものだと、少なくとも当事者どうしの間では、共通の了解事項として存在していたはずである。
 今はどうなのだろう。たまたま私がいま生活している場では京都生まれ・京都育ちという人が少ないので、昔ながらの見事な「いけず」を目の当たりにする機会も滅多になくなってしまった。ちなみに、普段の私のもの言いは、とくに他府県出身の方から「キツイなあ」としょっちゅう言われる。そのたびに自分のヒネた性格がいやになるのだが、親戚どうしだともっと「えげつない」ことをみんな平然と言い合っているから、私のこれはおそらく風土病であるのかもしれない。
 

 データが古くて申し訳ないけど、91年度の京都市の調査によれば独身の市民のうち62%が京都生まれ京都育ち。孫を持つ世代になると、なんと80%以上が生まれてから京都以外の町に住んだことがないといいます。(中略)そして京都市の同じ調査で「京都に永住したいと思うか」という質問には「なるべく永住したい」「どんなことがあっても永住したい」という人が80%もいたそうで、土着率も執着率もたいへんなもんなのです。(62〜63ページ)

 10年以上たった今なら、土着率はもう少し下がっているかもしれない。執着率の方も、さてどうだろう。しかしながら、こんなに高い数字だったからこそ「いけず」が通用する街だったのだ、と言えるのではなかろうか。
 
 
 なんだか「いけず」の話に終始してしまって申し訳ない。いちばん最初に書いたように、本書はそんなに深刻なものではなく、哄笑のうちに気軽に読める内容であることを再び強調しておく。「深泥が池伝説」や「河原町のジュリー」、「地元UHFテレビ局の名物コマーシャル」などの都市伝説は、おおよそ20年くらい前に京都で学生生活を送った人なら誰でも知っているから、そういう向きにとってはたまらなく懐かしいだろう。また、「餃子の王将」に関する考察も鋭い(私もあそこの餃子のサービス券には大変お世話になりましたです)。他にも京番茶の話など、ほかの「いわゆる京都本」には出てこない話題が盛りだくさんだ。
 
 ところで、グレゴリ青山さんは「はったい粉」には思い出がなかったのだろうか。私などは、あれが幼年期〜少年時代の味覚としてはいちばん記憶にあるのだが。
 
 

2004 09 02 [living in tradition] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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