[BOOK]:ポピュラー音楽は誰が作るのか

巻末の略歴によると、著者は元ビクターエンターテインメント勤務で、洋楽部長・映像製作部長・メディアネットワーク部長を歴任し、20世紀最後の年に退職された方である。その後は研究者に転じ、本書は著者の修士学位論文がもととなっているとのことである。
●ポピュラー音楽は誰が作るのか 音楽産業の政治学
生明俊雄/勁草書房/2004年8月初版
ISBN4-326-65295-0
カバー挿画・生明夏江
装丁・板谷成雄
学術的な研究書なので、読みにくいかと思ったらさにあらず、たとえばCD輸入権問題などで音楽著作権方面の小難しい書物に悪戦苦闘した経験をお持ちなら、本書は非常にすいすいと頭に入るのではないだろうか。読みやすさって、それだけでとっても価値があると思います〜。
内容をひとことで言うと、日本におけるポピュラーミュージック史である。ただし、ここではヒット曲を産み出す側、すなわちレコード会社や音楽制作会社の盛衰に描写の力点が置かれている。
本書は、レコード会社が誕生した大正時代から始めて現代に至るまでを、大衆音楽=ポピュラー音楽に焦点を定めて詳述している。レコード会社の内側なんて一般人にはその実情がなかなかわかりにくい(ま、どの業界だって同じだろうが)から、トリヴィアルな興味で読み進めてもたぶん面白いだろう。表題にひとつだけ文句をつけるとすれば、「政治学」というのが私にはいまいちピンとこなかったのではあるが。
そもそも「レコード会社」と名乗るからには、企画・制作から製造、宣伝、流通まで、すべて自社内部でおこなうのが本来のありかたである。事実、昭和のある時期までは、そういう方法でレコード盤がプレスされ、時代を象徴するヒット曲が創り出されてきたのである。このころの日本のレコード会社は、作詞者・作曲者から歌手・演奏者に至るまですべて「自社専属」というかたちを採り、自社スタジオで録音し原盤をつくり、自社工場でプレスするというのが当然だったのだ。
1960年代に入って、そのシステムに変化が起こる。アーティストの「専属制」が崩れ、制作機能が会社外部に広がるようになるのである。マネージメント会社が制作したレコードが植木等の「スーダラ節」(渡辺プロダクション)、音楽出版社が関わったのがジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」とマイク真木の「バラが咲いた」(制作は新興楽譜出版・現シンコー・ミュージック)、そして放送局系列ではフォーク・クルセイダーズ(後にフォーク・クルセダーズと改称)「帰って来たヨッパライ」(パシフィック音楽出版、現フジパシフィック音楽出版)が、それぞれ外部制作の第一号であると、著者は記している。
この結果、レコードの原盤をレコード会社以外の会社が持つ、という事態が起こった。そこで「原盤権」という語が登場する。私にとっては「輸入権」と同じくらい耳慣れない言葉なのだが、つまりはどうやらこの時代あたりから、ヒットソングにさまざまな利権が絡まりはじめることとなったと理解していいのではないだろうか。そしてこの“利権というパイの奪い合い”は、結局は世紀を越えた現在にまで、尾を引くことになるのだ。
ここでちょっと本題から離れる。大衆音楽=ポピュラー音楽、あるいは古くは「流行歌」という言い方もあったが、本書を読み進めていて「けっきょくのところ、ポピュラー音楽ってなんなのだ?」という疑問が、ずっと私の頭の中から離れなかった。いや、理屈では理解しているつもりである。すなわち「メガヒットを目論んで作られた楽曲」のことだろう。20世紀の終わり頃までは、これはそのまま「レコードを一枚でも多く売るための楽曲」であった。「レコード産業」「音楽産業」という呼び名があることからもわかるように、ここでの「音楽」はなによりもまず工業生産品なのだったし、だからこそよく売れる曲を量産できる人間は「ヒットメーカー」だったのである。
で、実は、私自身はそういう「産業としての音楽」から興味を失って久しい。簡単に言えば、ポップスをまるで聴かなくなってしまったということだ。別に敢えてアンチの姿勢をとっているつもりではもちろんないのだが、かといって“トップ・アーティスト”と呼ばれるミュージシャンの新譜を指折り数えて心待ちにし、発売日に店頭に並ぶようなことは全くしなくなってしまった。老化といえばおそらくそうなのだろうし、変わり者というなら確かに変わっているのだろう。ただ、このようにヒット曲に無関心な層というのが、かつてに比べてそうとうに増大している、とだけは言えるのではないか。「変わり者」はなにも私ひとりだけではないはずだ。
1990年代半ばをピークにして、レコード/CDの売り上げは徐々に減っていく。これは日本のみならず、世界的にみても同様の傾向だ。かわりに台頭しつつあるネット配信に代表されるように、パッケージメディアとしての「レコード」は、その役割を終える時が来たのかもしれない。
しかし、「レコード産業」は黄昏を迎えても、それは「音楽ビジネス」が新しい局面を迎えただけのことであって、「音楽産業」そのものの終焉ではない……と著者は最後に結んでいる。
いままで音楽ファンが輸入盤や探しにくいインディーズ盤を通して聴いていたような音楽、あるいはミリオンセラーに集中するメジャーが無視していたような音楽が、新しい音楽産業体制では受容者のもとへ、容易に届けられる可能性も増すだろう。これからもミリオンセラーが生まれることもありうる。しかしそれはこれまでのように送り手の側が選定したミリオンセラーではなく、受容者が多くの選択肢のなかから選んだ曲のなかから生まれることになるだろう。(242〜243ページ)
ずいぶん希望に満ちた言説であるが、この最後の部分だけは、私は少しばかり疑問に思う。確かに、レコードの有無にかかわらず「音楽」それ自体がなくなることは、まずあるまい。しかし、これまでのような「ポピュラー音楽」つまりメガヒットする楽曲が、はたして今後も同じように誕生するのかどうか、私にはその構図がよく見えないのである(すでに登場しているメディアでいうと、たとえば「着うた」がそういう役割を担うことになるのかもしれないが……)。
* * *
最後に「変わり者」の無責任な暴言を吐かせてもらう。「大衆音楽」がこのあとも変わらず必要とされるかどうかは、誰にもわからないと、私は思う。
今はまだ、誰の心の中にも「我が思い出のポップス」が在るだろう。絶海の孤島でひとりで暮らしていたのではない限り、誰しも大衆音楽と無縁ではいられなかったのが20世紀という時代だった。しかし、だからといって今後もポピュラー音楽が生み出され、かつ聴かれ続ける保証は、実はどこにもないのではないか。
要するに、音楽から「売れなければならない」という命題を外してあげるという選択肢だって、あるはずなのだ。そして、そのことによって「産業としての音楽」が衰退し消滅することになっても、別に構わないじゃんとさえ、実は、私は心のどこかで思っているのである。
たぶん、それでも「音楽」自体は、なくならない筈だから。
2004 09 08 [face the music] | permalink
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