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[stage]:五感が踊り、生命が歓ぶ。〜blast !

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 昨夏に続いて2度目の来日公演となる『blast!』大阪公演に行ってきた。会場は昨年と同じ大阪厚生年金会館である。上の写真は公演プログラム(アートディレクション:山本剛太郎/グラフィックデザイン:岡村康平)。
 
 昨年は事前にほとんど何の情報も入れずに観たので、眼前で繰り広げられるパフォーマンスを追い切れず、あれよあれよという間に終わってしまった。すっげえという感想は残ったものの、イッタイナンナンダコレハ、と目が点になったままだった。だから今年は舞台上のあらゆることを逃すまいと、それはもう気合いを入れて会場に向かったのである。
 
 
 “ステージ・パフォーマンスは会場で観るに限る”というのは昔からの真理で、そこにはじゅうぶんに鍛えられ訓練された身体をじかに観られるという悦びももちろん含まれるのだが、『blast!』の場合は特にその傾向が顕著だと思う。それはたぶん、ステージを観るわたしたちの五感を——ひょっとすると第六感までをも——心地よく刺激してやまないからだろう。ヴィデオでは、そのあたりの感覚がごっそり抜け落ちてしまって、なんだか別のショウを眺めている気分になってしまう。まあ、ヴィデオはヴィデオで、けっして悪くはないんだけども。
 
 
 それにしても、楽しく感動的なエンターテインメントは数あれど、作品の細部の隅々に至るまで、これほど生命感がきらきらと躍動しているステージはそう多くはないのではないか。空を飛ぶフラッグのはためきやピンスポットに光るユーフォニウムの輝きなどは、もはやエロティックですらある。
 そういえば開演前、まだ客が入る前からステージ上にぽつんと置かれたスネアドラムに、ずっと一筋のライトが当たっているのだが、誰もいないステージを注意深く眺めていると、微かに焚かれたスモークや会場内の細かなホコリが、スポットライトの光の中を粒子となって泳いでいるのが見える。そんな空気の流れすら不思議な生命感に満ちあふれていて、実は『blast!』は開演前からもうすでに始まっているのだ、ということがよく分かる。
 開演前にエンドレスで流れているパーカッションのBGMが徐々にフェイドアウトし、そこで刻まれていたリズムがそのまま第一場の「ボレロ」に引き継がれていくという演出は、だから周到に計算されたものでもある筈なのだ。
 
 このステージで使われる管楽器やパーカッションはもとより、ダンサー達が手にする様々な小道具(『blast!』では「手具」と呼んでいる)まで含めると、何百種類という夥しい数のモノが登場するが、そのどれもが、あたかも自ら意志を持っているかの如く動く。もちろんどの楽器・手具もミュージシャンやダンサーが操っているのだが、扱い方が実に自然だから、モノそれ自身に人間の感情が乗り移ったかのようなのだ。ここで叩かれるシンバルはそのまま彼の叫びであり、蒼い照明のなかで天上から聞こえるトランペットはそのまま死者への祈りであり、また風を切る原色のフラッグはそのまま空を飛ぶ彼女でもある。
 楽器・手具と人間が渾然一体となって会場全体を自在に動き、やがて劇場空間はそっくりひとつの巨大な生命体となる。第二部では、単に座っているだけだったはずの観客までもが、その大きな生命体のなかの細胞のひとつになり、『blast!』の祝祭はクライマックスに達する。この興奮こそが『blast!』の最大のポイントだろう。ヴィデオやDVDでは絶対に味わえない体験であり経験である(いわゆる「観客参加型パフォーマンス」とも違うと思う)。
 
 
 セラピストの世界は詳しくないのでうかつなことは書けないのだが、『blast!』はある種のダンス・セラピーであり、音楽治癒であり、またカラー・セラピーでもあるのではないか。たとえば第一部で私が最も好きな演目「Simple Gifts〜Appalachian Spring」(テーマカラーはグリーン。余談ながら Michael Flatley の《Lord of the Dance》のテーマ曲にも使われた曲である)では、シェーカー教徒の賛美歌を出演者全員が合唱する。管楽器と打楽器の饗宴をウリにするショウで、無伴奏合唱、つまり人間の声を正攻法で使われると、もうそれだけでぐっと胸に迫るものがあるし、そのときの振付というか仕草——手話なのだろうか?——がまた実に素晴らしく感動的なのだ。
 いま、ともすれば失われつつあるかもしれない人間性を、快復させる効果がこの演目にはあると言っていい。その効果は、たとえば第二部のディジリドゥーの場面でも顕著だし、もっと言えば『blast!』そのものを支える精神的・思想的バックボーンになっていると断言しても、たぶん間違いではあるまい。単純な人間賛歌にとどまらず、そこからもう一歩踏み込んで、より原初的な人間性をもういちど取り戻そうとする強靱な願いを、この作品から感じ取るのは果たして深読みのしすぎなのだろうか。
 
 生きていることはそれだけで素晴らしいことで、人間が人間性をフルに発揮するということがどれだけ偉大なことなのか、このショウは教えてくれる。ショウが進行する2時間のあいだ、客席にいる私の身体の中の細胞のひとつぶ一粒が、ざわざわと立ち動き出すのが実感できるかのようでもある。五感——といってもこのショウには味や匂いは出てこないのだが——がリフレッシュされ研ぎ澄まされたような感覚。ステージ上のミュージシャンの叩き出す一音一音に応え、アンサンブルの醸し出すハーモニーに調和し、ダンサーのステップのそれぞれを受け止めようとする私が、そこに居る。そう、私の五感は歓んでいる。
 
 
 
 今回は幸運にも、ステージから2列目のほぼ中央という、たいへん良い席にめぐまれた。このショウではPAも使われているはずだが、ここまで前だとほとんどナマ音である。出演者の息づかいや、フラッグがはためくわずかな音でさえ良く聞こえる場所だ。
 そういうところで、総勢数十名による全力疾走のブラスとパーカッションがフル・ヴォリュームで鳴り響くとどうなるか。普通なら、耳をつんざくばかりの大音響で終演後もしばらく耳鳴りがおさまらないところである。ところが『blast!』ではそんなことにならなかった。耳がまったく嫌がらないのである。ちなみに言えば、私はふだん家の中でCDを聴くときには可能な限りヴォリュームを絞っている。疲れるので最近はヘッドフォンもほとんど使わなくなった。それなのに、である。どうやら、機械的に増幅されたものはダメだが自然音なら大丈夫という、なんともゼータクな体質になってしまったのかもしれない。ともあれ、これは本当に不思議な体験だった。
 

【関連】
・dress-up-smartlyブラスト!
・dress-up-smartlyブラスト! 2

2004 09 06 [face the music] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

トラックバックとリンクをありがとうございます。
とんがりやまさんの記事を拝見していますと、ライブの様子がよみがえってきます。(^_^)
いろんな席でいろんな角度で、何度でも見てみたいパフォーマンスでした。

posted: (^o^)丿mee (2004/09/09 12:25:55)

こんにちは、コメントありがとうございました。
>いろんな席でいろんな角度で、何度でも見てみたいパフォーマンスでした。
本当ですねえ。どこに座っていても、それぞれ充分楽しめるという演出がにくいです。私も、すでに来年の公演(あるのか?)が楽しみだったりします(笑)。

posted: (2004/09/09 23:44:51)

 

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