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遙かなり蘇格蘭土

私は小説のたぐいは滅多に読まないし文学史にもほとんど興味はないのだが、漱石夏目金之助がヴィクトリア期の英国に留学していたことは、とりあえず一般常識として頭に入っている。けれども、そのときスコットランドにまで足を伸ばしていたことは全く知らなかった。この本を手に取ったのは、だから「え、あそこにも行ってたんだ」というごくごく素朴な驚きのためだ。
●スコットランドの漱石
多胡吉郎著/文春新書398/2004年9月刊
ISBN4-16-660398-1
装幀:坂田政則
漱石の評伝であれば、昨今はさすがに、ロンドン体験を外して書かれるようなことはあり得ないが、それでもスコットランドの旅については、殆どまともに顧みられることがない。ロンドンで溜め込むものがあって、そこからスコットランドを訪ねた時に胸に湧くであろう思いについて、まだ日本人研究者の想像力が追いついて行かないのだと思う。(5ページ:初めに)
ふーん。ということは、漱石の蘇国への旅にはまだまだ謎の部分が多いということか。そもそも漱石自身、この旅のことはあまり語っていないらしい。
倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり(『文学論』)
という風な、素人にもわかりやすい啖呵を、ことスコットランドに関してはなにひとつ書き残していないことも、長い間「殆どまともに顧みられることがな」かった理由のひとつだろう。しかし、作家がろくに書き残していないからといって、「書くに値しない旅/取るに足らない旅」というわけでもあるまい。本当に感動した時、それをそっくり自分の胸の奥底にしまいこんでしまい、あまり他人に言いふらさないことだってあるんじゃないか。
この本の著者は文学研究者ではなく、もとNHKのディレクターだったという。現在は英国在住で、漱石の言うような「不愉快」を日常的に感じることも多いらしい。本書は、そんな留学中の漱石の心情に深く共感した著者が、第一次資料に乏しい蘇格蘭土旅行を、研究者ではないものの強みとテレビ屋さんらしい想像力をもって、緻密に描き出している(なお、本書後半ではこの旅と『草枕』との関連を詳しく検証しているのだが、『草枕』未読の私には感想を述べる資格がないのでパス)。
漱石自身がこの旅について書いたものはごくわずからしい。代表的なものとして1909年に東京朝日新聞に連載した『永日小品』という作品に「昔」という一章があり、これは実際の旅行から6年あまり経ってから書かれたものだそうだ。
ごく短い文章だから、本書中にその大部分が引用されているが、これはぜひ全文を読んでみたいと思った。孫引きになるが、出だしの部分だけ引いてみる。
ピクトロリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。(34ページ:昔)
漱石が彼の地を訪問したのは10月だ。個人的に四季のなかで秋がもっとも好きなので、余計にこういう文章に心惹かれるのかもしれない。
新聞連載のために書かれた作品ということもあって、贅肉を削ぎ落とした端正で透明感のある文章は「さすが文豪」なのだけれども、それ以上に、これはやはりスコットランドという風土そのものが書かせた文章だ、と言っても作家に対して失礼にはあたるまい。というのも、日本人、とくに昔の日本人にとって、蘇格蘭土というくには「こういう文章を書かせる土地」なのではないか、という気がしているからだ。
…と言っても、私はここで多くの作例を挙げられるほど“通”ではない。が、おそらくこの本一冊を紹介するだけでも充分ではないかと思う。

●ハイランド
辻村伊助著/平凡社ライブラリー262/1998年9月刊
ISBN4-582-76262-X
装幀:中垣信夫
※著者名の「辻」のしんにょうは、正しくは点がふたつ
底本は1930年に刊行されたもので、著者が実際にスコットランドに行ったのは1914年の6月後半とのこと。このひとは登山家だそうで、スコットランド高地地帯(ハイランド)の山々を踏破するのが目的の、これはいわゆる山岳紀行文であり、旅日記である。
漱石からわずか12年後の旅の記録なのだが、たとえば英国人を眺める眼ひとつとっても、漱石とはずいぶん違って余裕や自信が感じられるのが面白い。もともとは山岳専門誌に掲載された文章で、ユーモアをふんだんにまじえ肩の凝らない調子で書かれているのが読んでいて楽しい。さっきは冒頭を引いたので、試しにこちらは最末尾を引いてみよう。
ふりかえると、ベン・ローモントの雲のはずれに虹が現われた。ベン・リーオッホの頂には雲が滲んで、山腹の草野はなめらかな膚を現わしておる。此等に囲まれた湖水の色は蒼空のように美しかった。(130ページ:ベン・ローモント)
漱石の旅は本格的な冬が真近い北国の秋、対してこちらは明るい初夏である。ふたりの著者の「資質の差」は、ひょっとすると旅行時期の設定にまで及んでいるのかもしれない。
まあ、個人の性格はもとより、英国に来た理由も背負っているモノも全く違うだろうから、このふたりを比べても意味はない。それよりも、それぞれの立場やメンタリティや旅の目的がこれほど正反対にもかかわらず、文章の中に描かれた蘇格蘭土の、その自然描写の美しさと鮮明さに共通のものが感じられるのが興味深い。
本書巻末の解説によると、この紀行文はハイランドをこまかく日本に紹介した最初の文章とのこと。大半の日本人にとって外国への渡航なんて想像すら難しかった時代、テレビなんてもちろん存在しない。そんな頃の、ごく普通の日本人は、たとえば「蘇格蘭土」をこういう紀行文によって知り、そのイメージを形作ってきたはずだ。そういうイメージは時代とともにいくつも重なって、やがては「ステレオタイプ」となって定着することになるのだろうが、漱石の文章も辻村の紀行文も、まだまだ見るもの聞くもの全てが新鮮だし、そこで感じたこと考えたこともオリジナリティ溢れるものだ。だからこそ、およそ100年前の文章だけれども、今読んでもちっとも古くさく感じないのだろう。
かく言う私にとっても、スコットランドは「死ぬまでに一度は絶対訪れたい地」の筆頭にあげたい場所である。けれども、上のような美しい紀行文を読んでいると、いっそこのまま自分のイメージの中だけに留めておくのも悪くはないかも…という気分になってくるのであります。
2004 10 12 [wayfaring stranger] | permalink
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