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[BOOK]:ひらがな日本美術史1〜6

これで完結ではないのだが、江戸時代篇が6巻でひとまず終了、いよいよ次巻からは「近代篇」に突入する。ひとくぎりという意味で、ここらでもういちど最初から読み直してみるのもいいかもしれない。
●ひらがな日本美術史
橋本治著/新潮社
第1巻:1995年7月刊/ISBN4-10-406101-8 装幀/日下潤一+大野リサ
第2巻:1997年8月刊/ISBN4-10-406102-6 装幀/日下潤一+大野リサ
第3巻:1999年12月刊/ISBN4-10-406103-4 装幀/日下潤一+大野リサ+川島弘世
第4巻:2002年11月刊/ISBN4-10-406105-0 カバー/日下潤一+沼田美奈子+後藤あゆみ
第5巻:2003年9月刊/ISBN4-10-406106-9 カバー/日下潤一+沼田美奈子+後藤あゆみ
第6巻:2004年10月刊/ISBN4-10-406108-5 カバー/日下潤一+沼田美奈子+後藤あゆみ
『芸術新潮』誌への連載は1993年から始まっているから、もう足かけ10年以上も続いていることになる。10年もやってたら、考え方だって少しは変わってきそうなものだが、そのへんはプロの物書き、第6巻の最後に書き下ろした「その百三 弥生的ではないもの」で、連載第一回にまで遡って自作の解題をし、みごと筋を一本通しているから流石であります。
まったくの余談だが、私がこのウェブログで本やCDやヴィデオを取り上げる場合、可能な限りデジカメでジャケットを掲載するようにしている。今回も同じように、本を6冊積み上げて写真に撮り、パソコンに取り込んでからレタッチソフトで開き、カラーバランスとコントラストとシャープネスを調整して切り抜きをして影を付け加えてリサイズして再保存して、で、さてそれではこの本についてナニ書こうかナなどと考えつつ適当な巻の適当なページを拾い読みしているうちに、そのまま読みふけって半日以上過ぎてしまった。あ、いかんいかん。
ていうか、感想を書くもナニも、とにかく「読め」だけでいいじゃんかよぉ、それ以外になにを言えばいいってんだよぉ、などとちょっぴり反抗期の中学生みたいな口調になってしまうのである。
閑話休題。このシリーズを熟読すれば日本美術が分かるのか? と問われれば、うーん、まあ、分かるんじゃないの? とややあいまいな答えを返したい。橋本治の文章はここでも、いつものようにダラダラとセンテンスが連なる橋本節で、思うにこういう文体は受け付けない人には全くダメだろう。「で? 結局のところどうなんだ?」と机をドンと叩きたくなる人もいるかもしれない。私はといえば、この人の文章は嫌いではない、というか好きだ。けっこうトンデモなことも言ってる筈だが、この文体のなかでは実に自然に違和感がないように書かれている。なんだかダマされてるよーな気もするよなー、などとも思いつつ、しかしそのダマされ方が快感だったりもするから細部があまり気にならないのである。だからこの人の書くモノを中途半端に受け売りして、中途半端に人前で吹聴しないほうがよい。必ずや「え? ソレってどういうこと?」とツッコミが入って、しかし自分ではうまく整合性が付けられず、しどろもどろになるだろうからだ。橋本治はいつだって自分のことしか書かないから、橋本治の書く文章は橋本治的文体の中で完結し、ひとつの橋本治的小宇宙を形成している。うかつな付け焼き刃はたいへん危険でもあるのだ。
『ひらがな日本美術史』は、弥生時代の埴輪からはじまって、第1巻は鎌倉時代まで。以下、第2巻が室町時代、第3巻で安土桃山まですすみ、4巻からは3冊たっぷり使って江戸時代を取り上げている。このセレクトとペース配分に、ああ、やっぱり橋本治だよなあ、とも思う。さっきも書いたけど、この人の書く文章は、どこで何を書いても絶対個人的なことになるんだから、私だって今さらここで「教科書的な通史」を望んでいるわけではない。むしろ「もっと私的になってえ」と思う者である。だからこそ、著者としては江戸時代をもっともっと、延々と続けたかったのではないだろうか、とも思うのだ。
しかし、形あるものはいつかは崩れる。続き物だって、いつかは終わる。永遠に続くものなんて、ありはしない。だから、ここまでで橋本治がいちばん愛情を込めたであろう江戸時代も、この第6巻で終わる。
じゃあ7巻以降はどうでもいいのか、というと、決してそうはならないところがこの人のいいところでもある。なにしろ時代はいよいよ「近代」に突入するのだ。そうなったらそうなったで、彼には書くべきことが山ほどあるはずだ。と、このへんは期待を込めつつなのだが、それも既刊を通読すればいやがおうにも期待してしまう。
ここまで、10年余という時間と6冊というボリュームを使って著者が書いてきたことは、結局「日本とは何だったのか」、この一言に尽きるのではないか。美術というフィルターを通してはいるが、とどのつまりは「日本的なるもの」の正体を見極めようとする作業の連続であり、さらに言えば「日本人とは何か」を考え続けた軌跡でもあった。なるほど、美術とは「現実をどう観るか」という眼と思考のはたらきの結果以外のなにものでもない。だとすると、近代以前の日本美術を追ってきたこのシリーズには「日本」が端的に詰まっているのだし、もう少し正確に言えば、この6冊には<橋本治のセレクトした「日本的なるもの」>がぎゅっと凝縮されている。
だからこそ、第6巻の最後には「書き下ろし」の一章が付け加えられているのである。この文章はつまりは「第一部終了」のあとがきでもあり、「日本的なるもの」の総括でもあるのだ。泣けるぞ。
「近代以前の日本美術」のすごさは、必要な「へん」をきちんと把握して、それをちゃんと位置付けていたことである。それを可能にするメルティング・ポットを、近代以後の日本人は壊してしまった。惜しいを通り越して、愚かだと思う。(第6巻/「その百三 弥生的ではないもの」:200ページ)
「惜しいを通り越して、愚か」になった日本人が生み出したモノを検証するのが、7巻以降のこのシリーズのテーマとなる、筈である。
私は『芸術新潮』誌を毎月チェックするほどの熱心な読者でもないから、現在この連載がどうなっているのか全く知らずにこれを書いているのだが、きっと相変わらずワクワクするような面白い連載が続いていることだろう。私としては、このシリーズは本になってからまとめて読みたいので、これまでも特に「この連載を読みたいがために」雑誌を買うことはしなかった。これからも多分しないだろう。
ともあれ、次巻は来年中かもしくは再来年のアタマくらいには読めるだろうか。今からとても楽しみである。
2004 11 01 [design conscious] | permalink
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