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[stage]:トリニティ大阪公演
11月2日の愛知公演を皮切りに、22日の石川公演まで、日本全国を全19公演というハード・スケジュールで駆け回ったアイリッシュ・ダンス・カンパニー<トリニティ>。その大阪公演に行ってきた(2004年11月21日、伊丹市立文化会館(いたみホール))。
※写真は公演パンフレット(編集・発行:日本交響楽協会)。
私の感想をひとことで言うと、「もうちょっとで傑作になれたのに」。惜しいなあ。
トリニティはアメリカはシカゴのカンパニーで、母体は競技用のアイリッシュ・ダンスを教える「トリニティ・アカデミー・オブ・アイリッシュ・ダンス」である。1979年の設立というから、もう四半世紀の歴史がある。アイルランド国外でコンペティション用ダンスをやる、というのはいろいろ大変だったはずで、そのへんの事情の一端はプログラムに掲載されたダーレン・スミス(プリンシパル・ダンサー)のインタビューによって伺い知ることができる。
アイリッシュ・ダンスには世界大会があり、みなそこを目指して切磋琢磨するのだが、なにせつい近年まではアイリッシュ・ダンスなんて誰も知らない、超マイナーなダンスだった。しかも、国際大会とはいえ参加者の80パーセントはアイルランド国内、残り20パーセントが外国籍からだったという(主にアメリカ、イングランド、カナダ、オーストラリアなどだろう。現在ではこの比率は変わっていると思われる)。ダーレン・スミスによれば、審査員がわの「政治的な事情」もあったようで、国外参加者には無言のさまざまなハンデがあったらしい。ま、芸術競技の審査なんて、どれほど公平に審査していようとも、多かれ少なかれそういう目で見られるのは仕方のないことかもしれないが。
ともあれ、当初はアカデミーだけで活動していたトリニティは、1990年には自前の公演組織を持つようになる。これが今回来日したアイリッシュ・ダンス・カンパニー<トリニティ>だ。
アイルランド国外のカンパニーにふさわしく、必ずしも伝統べったりによらない実験的なダンスを目標にする。と同時に、競技用ダンスをみっちり教え込むアカデミーが母体になっているから、基本的な技術のレベルも相当に高い。どれほど実験的・前衛的なことをやろうとも、それが「なんちゃってアイリッシュ」にならずに済んでいるのは、この技術の確かさによるところが非常に大きいと思う。
今回の日本公演は、正統的な競技会風ダンスもあればアフリカン・ダンスやアジア(インドもしくはインドネシア)風なテイストのものまで、さまざまなスタイルが楽しめる。ちょうど、いわゆる「ワールド・ミュージック」が、ある国の伝統音楽をベースにしながらも異なる要素を次々とミックスもしくはフュージョンさせてポップス化していったようなことを、トリニティはアイリッシュ・ダンスでやっているのだ。このあたり、言葉で説明するのが難しいのだけれども、たとえば背筋をピンと伸ばしたアイリッシュのハード・シューズ・タップと、腰を低く落とし太股や胸を叩きながら足を踏みならすアフリカンテイストのダンス(足首に鈴をつければモロにそうなる)を、一曲の中で違和感なく連続させるなどというのは、音楽のミクスチャー以上に、非常に難度が高いのではないか。なにしろ基本ポジションからして全く違うのだから。
個々のダンサーのレベルが高いので、安心して見ていられたし、帯同したミュージシャンの演奏も素晴らしいものだった。実をいうとそれほど大きな期待を持って出かけたわけではなかったのだが、予想以上に収穫も多く、そこそこ満足のいくステージだった。
ただし、不満な点も多い。不満と言うより、「うーん、もうちょっとでいいところまでいくのになあ」という、歯がゆい思いである。
まず、演奏陣。メンバーがドラムス/パーカッション、ギター(一曲だけ歌も披露した)、そしてフルート/ホイッスル/イーリアン・パイプスのわずか3人で、これで「トリニティ・オーケストラ」だと自己紹介したから思わず苦笑した。しかも実際のステージではフィドルなどの明らかに録音された素材を同時に流し、バンド(あえてこう呼ぶ)の生演奏とミックスさせているのだ。せ、せこいぞ。ダンサーと同じく、ミュージシャンの力量も高いから、たとえばアイリッシュ・パブなどでそれぞれ演奏したらすごくいいギグができるに違いない。なのだけれども、総勢18名のダンサーを支えるバンドとしては、明らかに迫力不足である。せめて5〜6名くらいのミュージシャンがいて、全曲完全生演奏でやってくれたら、さぞかし凄かったことだろう。
演目面では、予定されていた第二部冒頭の〈シャムロック・シャッフル〉が都合により中止となったのが残念だった。それとは別に、全体にもう少し統一感があっても良かったように感じた。アイリッシュ・ダンスと他の民族系ダンスのフュージョンという大変高度なことをやっている割には、その凄さがいまいち伝わらなかったのも惜しい(ま、ただでさえ「本物のアイリッシュ・ダンス」自体があまり知られていないのだから、どのみち「通好み」な見方になってしまうのだが)。総花的な、アレもできますコイツはどうだ、という見せ方で終始したものだから、かえってショウ全体のポイントが見えにくくなって、終幕後の印象が散漫なものになったことは否めない。
さらに言えば、ステージ・ショウに不可欠な「華やかさ」が、今一歩足りなかったのではないだろうか。先にあげたミュージシャンの少なさにもつながるのだが、「予算ぎりぎりでやってます」的雰囲気がぷんぷん感じられたのだ。まあこの辺は、どうやらトリニティは商業主義的なスタンスでやっているのではないらしいから、彼らとしては確固たる信念に基づいたやりかたなんだろうけれども(Air:トリニティのDarren Smithさんインタビュー参照のこと。曰く「舞台芸術の世界は興行の世界と同じではないんだ。」このあたり、ツアーパンフのインタビューよりもより突っ込んだ話が読めます。Airのmoriyさん、いつもありがとうございます!)。
でもねえ、なにも知らない日本の観客は、豪華絢爛で押しの強いショウを見慣れている(特にブロードウェイの引っ越し公演なんかがそうだ)から、決して安くはない入場料を取っておいてコレかよ、みたいな感想がついつい出てしまうのよ。ウソでもハリボテでもなんでもいいから、もうちょっと上手にダマしてよ〜、と思った人も多かったんじゃないかしらん。
いま、豪華なショウと書いたが、トリニティ日本公演の宣伝チラシにさかんに『リヴァーダンス』の名前があったので、最後にひとことだけ。
実はあのショウの成功は、個々のダンスや音楽の完成度もさることながら、ショウに賭ける意気込みの総量が、とんでもなく大きかったのがポイントだと思う。商業的成功を至上命題に、ほとんど国家を挙げての熱意が『リヴァーダンス』には注ぎ込まれていた。翻ってトリニティは、むしろアーティスティックな実験の場であり続けることの方が大きいと思う。そもそもの立ち位置と目指す方向に違いがあるのだから、たとえただの宣伝文句にしろ安易に『リヴァーダンス』の名前を使うべきではなかったように思うのだが、いかがだろうか。
2004 11 22 [dance around] | permalink Tweet
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