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10年目の古新聞
1995年の1月17日から約1ヶ月間の新聞を、私は未だに持っている。手許にあるのは毎日新聞の大阪本社版だ。
<その日>の朝刊は、もちろん、至って平和なものだった。1面トップは「社会党の山花貞夫・新民主連合会長らが民主リベラル新党を結成するため社会党を離脱する」という内容のもので、その横には村山首相と武村蔵相が首相官邸で会談し、社会・さきがけ両党の連携強化を目的とした意見交換をしたという記事。カラー写真入りで大きく扱われているのは、人間国宝の中村雁治郎が道頓堀の中座で「曽根崎心中」お初役千回を達成した、という内容。そしてその下では、日独共同計画の実験衛星の打ち上げ失敗を報じている。
つまりは、いたって日常的な、いつもの朝刊だった。…ただし、その新聞をいつものようにゆっくり眺めていた人は、たぶん誰もいなかったのではないか。
あの日、最初の大きな揺れが収まると同時にテレビをつけた。その時点で、新聞受けにはすでに朝刊が放り込まれていたはずだが、もちろんそんなもの、見向きもしなかった。ちなみに一般家庭のパソコン通信は、まだまだモデムによるダイヤルアップ接続が主流で、携帯電話でさえそれほど普及していなかったはずだ。情報源はテレビもしくはラジオが最も早く、豊富で、確実だった。
新聞が震災報道一色になるのは翌日以降で、その日の夕刊にももちろん一面ブチ抜きで扱われてはいるものの、まだ情報が整理しきれなかったのか、誌面の半分近くは通常の記事で埋められていた。新聞記者とて被災者だったから、夕刊が発行されたこと自体、奇跡にも似たようなことだったかもしれない。実際にはテレビもラジオもとっくに特別番組に切り替わっていたはずだが、さすがに夕刊には間に合わなかったのだろう、通常の番組案内しか載っていない。18日以降、新聞は写真主体のグラフ誌のようなものに変化した。
1995年はもうひとつ、3月に地下鉄サリン事件という大きな事件が起こり、以後ずっと、テレビも新聞も週刊誌もオウムと震災の話題で埋め尽くされた。
生活者の実感として、1995年を境に空気ががらりと変わったという印象がある。たんに景気の悪化、というだけではなく、陰惨で不可解な凶悪事件が増え、一流企業をも含めて多くの人たちのモラルが一気に低下し、先行きがうんと不透明になった。それらのそもそものきっかけが、この日の朝に起こった出来事だったと、私は思っている。
せめて10年間は保存しておこうと決意してしまっておいた古新聞の山は、いくぶん変色し、やや硬くなっていた。残された約1ヶ月間の紙面を全部見ようとして、私にはしかし、どうしてもページをめくる気になれなかった。
かろうじて、1995年1月17日の朝刊をすみずみまで眺め(10年目にして初めてだ)、元通りにたたみ直し、元通りに袋に入れて、再び元の棚の奥にしまいなおした。
さらにあと何十年経過しようが、私がこの新聞の山を冷静に眺められることはたぶんないだろうな、と思いながら。
2005 01 17 [living in tradition] | permalink
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