« 右見て左見てもう一度右見てそれから左見てさらに右見て…たら渡れません。 | 最新記事 | 宴のあと »

ショーサヴ・オ・ニャクタンの歌う靴

 

joesshoes

 
<歌う靴>といっても、もちろんタネや仕掛けがあるわけではない。ごく普通の革底の靴だ。だからもちろん靴から何らかのメロディが鳴りだすわけではない。にもかかわらず、そのステップは極上のアイリッシュ・ミュージックを奏でているのだ。ショーサヴ・オ・ニャクタンのダンスには、いったいどんな秘密があるのだろう。

 
joesdancing「マイクロフォンを使うような大きなステージでは、舞台効果のために金属チップのついたタップ・シューズを履く。けれど、ふだんは普通の靴を使うよ。今のように木の床じゃなくて、石の上なんかで踊っていた大昔には、底に釘を打った靴で踊ってたらしいんだけどね」
 
 さすがに釘打ち靴は登場しなかったけれど、ステージ(3月5日・バナナホール=写真右)でのタップ・シューズと、ダンス・ワークショップ(3月6日=写真上)での革靴の、両方を観ることができた。ステップ自体は同じでも、靴音が変わるだけでまったく別のダンスのようにすら思えるから不思議だ。楽器でも、PAを通した音とノーマイクの生音では受け取る感じがかなり変わるけれど、ショーサヴ(ジョー)・オ・ニャクタンのシャン・ノース・ダンスの場合、ひょっとするとそれ以上の違いがあるかもしれない。特にワークショップでは、音楽のないまったくの無伴奏でダンスを「聴く」ことができたのが貴重な経験だった。その感想が、冒頭の一文である。つまり、そのダンスは、極上のアイリッシュ・ミュージックだったのだ。
 
 
 先日、シャン・ノース・ダンスは「現在ではアイリッシュダンス・フリースタイル部門のようだ」と書いた。けれども「フリー」とはいいながら、実際のワークショップでは<決まった振り付け>を教える先生も少なくないという。確かに、一定の振り付けがある方がわかりやすいし、習得の具体的な目標にもなるからだろう。生徒同士のレベル差も一目瞭然だし、先生/生徒双方にとって、もっとも都合がいいやり方なのかもしれない。
 けれども、このやり方は「効率的」「経済的」である反面、いちばん肝心な部分がごっそり抜け落ちやすくなる危険性もはらんでいる。つまり「音楽」がどこかに行ってしまいがちになる、ということだ。
 
 伝統的なアイルランド音楽には楽譜などないから、音楽を覚えるときは先人の演奏にただひたすら耳を傾けたという。知らない曲を演奏している人がいたら、その場で一所懸命聞き覚え、家に帰ってから記憶だけを頼りに練習したものだと、昨年来日したメアリ・マクナマラが語っていた。音楽を伝える<メディア>が、近所のパブとか同じ村の誰かの家などしかなかった頃のアイリッシュ・ミュージックは、そんな風に人から人へ伝えられていた。まさに「自分たちの楽しみ」のためだけに存在してた音楽であって、そこでは音楽が等身大以上に大きくなることもなかった。そして、楽譜にも録音にも頼らなかったからこそ、たとえば装飾音の付け方に独創的なバリエーションが考え出され創り出され編み出され、それがアイリッシュ・ミュージックぜんたいに豊潤な色彩を与えてきた。
 ジョーのダンスは、どうやらこのような立場に近いのではないか。
 
 
 両手を水平に広げ、ぐるっと一回転しながら言う。「シャン・ノース・ダンスは、この範囲のなかで踊るんだ」
 床の上を所狭しと駆け回るようなことはない。特別な訓練を要し、人間の能力の限界に挑むかのようなアクロバティックな大技もない。なんら特殊な道具も使わない。とりあえず誰にでも踊れるだろうし、それ故その人のありのままがそっくり反映される…それが、ジョーにとっての「シャン・ノース・ダンス」なのではないかと想像する。
 これは実にシンプルで明快な考え方なのだが、しかし同時に、実はもっとも難しいことでもある。
 <とりあえず誰にでも踊れる>と書いたけれど、だからこそ、誰にでも気軽にできるというものではないのである。メソッドの確立された最近のダンス習得法——つまり、鳴っている音楽をカウントをとるためのメトロノームとして聴き、あらかじめ順序の決まった「振り付け」を覚えることがダンスを踊ること——に慣れた向きにとっては、彼のシャン・ノース・ダンスは途方もなく遠い存在だろう。彼のダンスは、なによりもまず「音楽」が全部自分の中に入っていなければならない。その上で<同じコトを二度とやらない>だけの柔軟な創造力(ジャズ風に言えばインプロビゼーション)がなくてなならない。要するに、総合的なセンスが非常に要求されるダンスなのである。<とりあえず誰にでも踊れる>かもしれないけれども、そんなセンスを誰もが持ってるわけではない。だから、ことによってはダンスどころではなく、ただ足を不格好にバタバタさせているだけになってしまう。その人のありのままがそっくり反映されるとは、そういうことでもあるのだ…あな恐ろしや。
 
 メソッドに関連してちょっと余談めくけれど、ほとんど全てのアイリッシュ・ダンスの基本的な特徴に、その対称性があげられると思う。ステップダンスでいえば、8小節分のルーティンを右足から始めたとすると、続く8小節は同じ動作を左足から始める、といった具合だ。ソロダンスだけでなく、アイリッシュ・セット・ダンス(ペアダンス)やケーリー・ダンス(グループダンス)にも同様の傾向を指摘することができる。アイリッシュ・ダンスをアイリッシュたらしめている要素のひとつだと言っていいだろう。なぜ対称性や平等性がここまで浸透しているのか。これには、かつてダンスが多くの人たちにとって娯楽であったと同時に、健康維持のための「フィットネス」であった可能性が考えられるという(宮澤紅子さんのご教示による)。2〜300年前、ダンスマスターがアイルランド全国を教え回っていた過程で、ダンスが次第にこのように役に立つモノとして定式化され、教えやすくかつ覚えやすいようにと、徐々に振り付けが固定されていったのではないかとも想像できる。
 驚くべきことに、ジョーはそんな「対称性という縛り」からさえも自由だ。つまり彼にとっては、一曲の中で右足と左足が同じステップを均等に分け合わなくてはならない、などということがないのだ。

 2003年のエラハタスでチャンピオンになったでしょと、水を向けると、いやあれは面白くなかったと、これも意外な答え。多くのダンサーが同じようなリズムで同じようなステップをしているのが彼には不満らしい。昔はもっとリズムやステップにヴァラエティがあったという。だから、彼は2004年のエラハタスでは皆リールで踊る中でホーンパイプで踊ったのだった。昔のもっと面白いシャン・ノース・ステップ・ダンスを彼は復活させようとしているのだ。(Tigh Mhichil:ショーサヴのステップ

 このように、ショーサヴ・オ・ニャクタンのやり方は、近・現代的なアイリッシュ・ダンスの方法論とは真っ向から異なる。にもかかわらず、彼のダンスは誰が観ても「アイリッシュ・ダンス」以外のなにものでもないことも確かなのだ。そもそもアイリッシュ・ダンスって何なのだ、という非常に根源的な問題を、彼は観る者に問いかけているのかもしれない。
 
 
「ダンス以前に、まず音楽をよく聴くことだね」と、ジョーは強調する。まず音楽があり、その音楽にダンスがぴったりと重なる。両者は決して別々の存在ではなく、渾然一体となっているべきもの——これが彼にとってのシャン・ノース・ダンスなのだろう。だからこそ他の誰かが楽器を弾くまでもなく、彼が靴をワンフレーズ踏み鳴らすだけで音楽がそこにあるように感じられる…のかもしれない。
 
 書き忘れたが、ショーサヴ・オ・ニャクタンはまだ20歳代である(【追記】Michealさんのこのエントリによれば、1978年3月9日生まれとのこと)。彼のようにすぐれて音楽的な感性を持つダンサーがいる限り、シャン・ノース・ダンスの未来はとても明るいんじゃないだろうか。
 

2005 03 09 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

「dance around」カテゴリの記事

comments

「歌う靴」 ジョーのダンスはまさにその通りですよね。「ちゃんと音楽を聴いて、それに合わせて踊る。曲を知ることが大切」って言ってました。それはセッションで皆で楽しく楽器を演奏することにも共通するわけで・・・。「セッション中とか、次はどの曲がでてくるかな、って思いながら踊るのがエキサイトして楽しいんだ」って。型にはまってない自由なダンス。音楽を聴いて感じるままにステップを踏む。「俺のやってることは他のアイリッシュダンスとは全く反対のことだから、俺のことをうっとうしい、ダメだ、と思ってる人は沢山いるよ。でも気にしない。俺のやってることがほんとのアイリッシュダンスの原点だからね」って、夜な夜なの「Drinking Session」で彼のダンスに対する熱い思いを話してくれました。

posted: (2005/03/15 21:35:38)

いいお話をありがとうございます。

もしかすると音楽でも同じなのかもしれませんが、アイリッシュ・ダンスって、センセイが10人いれば10通りの違う答えが返って来る世界だったりしますし(苦笑)。

今回、ジョーは「アイリッシュ・パブでコアなアイリッシュ・ダンス・ファンの目の前で踊る」から「商店街の特設会場で通りすがりの買い物客の前で踊る」まで、それなりに幅広い場所と客層を相手に踊ってましたが、どこでも感嘆と興奮の嵐だったのが印象に残っています。
日本ではそのダンスが「正統なアイリッシュ」なのかどうかを重要視する人はほとんどいないでしょう。けれどもそんなこと以前に、彼が踊り始めるとどんな人だって思わず夢中になってしまうという、なによりの証明が今回できたんじゃないでしょうか。

>夜な夜なの「Drinking Session」
う〜ん。羨ましいような、肝臓が悲鳴を上げそうな(笑)。

posted: とんがりやま (2005/03/16 19:14:32)

 

copyright ©とんがりやま:since 2003