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Mozaik:Live from the Takutaku

 

だが、ロックの快楽は身体的な問題であると同様、文化的な問題でもある。そしてこの音楽の意味は固定してはいない。ロックは、それぞれ別個に発展してきて、独自の文化的メッセージを携えた音楽的要素が、常に組み合わせを変えながらつくり上げてきたものなのだ。(『サウンドの力』サイモン・フリス著/細川周平・竹田賢一訳/晶文社/1991年/26ページ)

 
 思わず、その音圧にのけぞりそうになった。音が厚くて熱くて、そして篤い。
 
 4月3日、京都・磔磔。Mozaikの記念すべきライヴ初日は、アンディ・アーヴァインの歌う〈My Heart's Tonight in Ireland〉から始まった。途中休憩をはさみ、1度のアンコールを含んできっちり2時間。観客はそのあいだ、ずっと、彼らの生み出す堂々とした音のカタマリに圧倒され続けていた。
 ニコラ・パロフが笛やガイタやカヴァルをかわるがわる持ちかえ、ドーナル・ラニィが少しだけバウロンを叩くけれども、このグループは、基本的にストリング・バンドである。フィドル、マンドリン、ブズーキ、ギター、そしてガドゥルカ。おっと、テナー・バンジョーも出てきたな。会場で売っていたTシャツのデザインが、5本の弦楽器が互いに少しずつ重なり合うイラストで、このグラフィックこそが、Mozaikというバンドのサウンドをもっとも上手く言い表しているように、私には思えた。妙な言い方だが、たった5本の弦楽器とはいえ、その複雑で繊細なハーモニーはひょっとすると下手な管弦楽団をはるかに凌駕するほどだったのではないか。
 
 音楽的出自は全員異なってはいるけれども、いずれ劣らぬ熟練の技の持ち主ばかり、そしてメンバーそれぞれがそれぞれをリスペクトしあっている、そんなオトナのバンドである。そのくせ、叩き出すリズムとグルーヴは強烈に若く瑞々しいのだから、たまらない。
 この日の磔磔には、ブルース・モルスキー目当てのオールド・タイム・ファンも大勢集まっていたし、私の隣に座っていた客はニコラのマルチプレイヤーぶりに驚嘆していたし、レンス・ヴァン・デア・ザルムの飄々としたプレイもそうとうに渋かったし、もちろんドーナルとアンディにはもっとも歓声が上がっていた。バンドにあわせて? 観客の平均年齢も若干高めだったような気もする。そういうところも含めて、実にオトナのライヴだった(大盛り上がりのダンス・チューンのあと、一度だけのアンコール曲が、アルバム《Live from the Powerhouse》の掉尾を飾る〈The Last Dance〉だったというあたりもオトナである。間近で聴けたニコラのクラリネットは、とても豊潤な音色だった)。
 
 バルカンの複雑な変拍子からアイリッシュ・ジグへ。あるいは、アルバニアのダンス・チューンからそのままケンタッキーのフィドル・チューンへ、彼らは軽々と、そして変幻自在に国境を越えていく。いわゆる「無国籍音楽」を演るバンドはたくさんあるだろう。けれども、Mozaikはそれぞれの音楽のアイデンティティをしっかり備えたまま、このメンバーでなければ出せない響きを紡ぎ出す。<キャラが立っている>とでも言おうか、5人が5人とも個性を埋没させることなく、けれども同時にバンド・サウンドとしてきちんと成立していることと、それは無関係ではないだろう。まさにモザイク——スペルは少し違うけれど——、どのピースが欠けても、この音楽は存在しなかった、はずである。

※Mozaikのこのあとのツアーに関しては、クランコラ・ブログ:モザイク日本ツアー開始をご参照あれ。

【追記】ドーナル・ラニィ、すっかり関西弁が上手になって(笑)
 

2005 04 04 [face the music] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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