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滅びゆくものを追いかけて
●市田ひろみコレクション 世界の民族衣装展
美術館「えき」KYOTO 5月18日〜6月5日
主催:京都新聞社、美術館「えき」KYOTO
市田ひろみさんの、三十数年にも及ぶ民族衣装コレクションはつとに有名だけど、その実物を観るのははじめて。この展覧会は地元・京都だけなのかな? 専用の図録などは用意されてなかったのだけど、今回は期間中、市田ひろみさんご自身による展示品解説もあるそうだ(リンク先は2003年の記事だけど、おそらくこんな感じだろう)。…人が多くなるだろうと予測した私は、わざとその日を外し、そのかわりに2002年に出版されていた写真集を入手した。
◎滅びゆくものを追いかけて 衣装の工芸 市田ひろみコレクション
市田ひろみ著/求龍堂/2002年2月刊
ISBN4-7630-0137-X
デザイン:大向務、今西久(大向デザイン事務所)
展覧会では約60点、この本には約450点のコレクションが収録されている。実物もたいへん保存状態が良く美しいものだったし、書籍の方も丁寧な編集で、ディテールまでじっくり楽しめた。ひとつだけ惜しいなと思ったのは、展覧会の方、できれば履き物も観たかったな(書籍版には少し載っている)。
ところで民族衣装と聞くとすぐに思い浮かぶのは、原色使いの派手やかなデザインのものが多い。テレビや雑誌などでの紀行ものではその土地の珍しいお祭りや儀式が紹介されることが多く、そういうシチュエーションだと思い切りカラフルに着飾った人たちが登場するので、「民族衣装=派手」という刷り込みができているのかもしれない。それはそれで間違ったことでもないんだろうけど、どうもアレはあまりにも綺麗すぎて、それほどリアリティが感じられない。中にはこの手のメディア向け(つーか観光客向け)に、最近になって創出された「伝統/風習」ってのもあるんだろうし、そうでなくとも現代生活にフィットさせる過程で意識的・無意識的にかかわらず「ウケを狙った」アレンジが施されることも少なくないだろう。民族衣装が派手なのは、メディアの発達(グローバリゼーションって言うんですかね)にもその理由の一端があるような気がする。
ま、そもそも民族という概念からして、幻想だ虚構だって議論もあるくらいだし、もしそうならば、所詮幻想だからこそよりカラフルにより派手に(つまり、より反日常的に)なってしまう、ということだって言えるのかもしれない。そして、こういう傾向は衣装に限らず、いわゆる民族音楽や民族舞踊などにもひとしくあてはまることだろう。いま私たちが見る民族衣装がことさらカラフルなのだとしたら、それが民族衣装だからが故になのである…という結論はひねくれ過ぎだろうか。
おっと、話がこんがらがってきた。
ありがたいことに、市田コレクションに関するご自身の講演が、ウェブ上で読める。
(前略)伝統的な衣装には3つの残り方があると思います。日常的には現代服で、何かのときに伝統的な服を着る。日本やヨーロッパなどはそうでしょう。そして、アメリカの場合は、1920〜1930年代にココ・シャネルやポール・ポアレというデザイナーが民族服を現代服に変えてしまったのです。
もう一つのエリアというのが、日常的に現代服がなくて民族服だけのエリアということでしょう。日常的に民族服しかないところを私は追いかけて歩いたわけですが、この33年間に既に滅びてしまった衣装もあります。
では、どうして根強く残っている衣装があるのかというと、1つのは、文明の度合いです。現代の情報、現代服が入ってこないという文明の度合い。それから、そのような衣装でないと困るという気候風土です。(Silk new Wave:シルク・サミット 2002 in 網野:特別講演 世界の衣裳から見えるものより)
詳細はリンク先をお読み願いたいが、「根強く残る」もうひとつの理由として、宗教(とくにイスラム)を別途挙げておられることも付記しておく。
本書の副題にもあるとおり、市田さんはご自身のコレクションを「滅びゆくもの」と捉えている。そして、それは民族文化というより<服飾工芸>自体の衰退を指し示しているのだろう。
市田さんは、ことさら民族衣装だから蒐集しているのではないように思う(他に適切な言葉がないから「民族服」という言い方もしているけれど)。これらの衣装がもつ、熟練した指先が生み出す手わざのすばらしさ(そして、その卓越した技術が日常着あるいはそれに準ずる用途に使われているからこそのすばらしさ)に強く惹かれているから追いかけているんだろうなというのが、展示品をざっと眺めるだけでもよくわかる。手仕事の美しさ、強さというのは、理屈ではなく直接的に人の胸をうつものだ。
展覧会に出された衣装のどれもがディテールが美しく、力強く、繊細だ。刺繍や染色パターンなどの(いわゆる民族風な)装飾デザインももちろん楽しいけれど、「布」を「着付ける」ということに対するアイディアの出し方というか展開のしかたが、どれもじつにユニークで興味深い。
たとえば、1960年代に急速に衰退していったらしいのだけれど、人が着ない状態だと全長3m20cmにも及ぶというヨルダンのカラカ(またはベダジャン)と呼ばれる服が展示されている。着付けた状態だとたっぷりとしたドレープとシルエットがかっこいい。なんだか着心地もよさそうだ。書籍版の解説によると「ウエストで大きくブラウジングする」とあるんだけど、どういう着付け方をするんだろう。
ひと一人ぶん用としてはあり得ないくらい量の布が必要になる(実物を見れば思わず笑ってしまう)し、着付けもさぞかし大変だろうしで、こういうものが衰退していく理由もわかる気がするんだけど、まあ、こういう笑っちゃうくらいの無駄、もとい贅沢さこそが文化なんだよな、というのもまた確か。そういうものが「滅びゆく」のは、やはり「もったいない」と思わざるを得ない…ですよねぇ。
文明が発達すれば文化はけずりとられてゆくのだ。(前掲書・13ページ)
2005 05 26 [living in tradition] | permalink Tweet
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comments
民族衣装といえばある国に住んでいた時に、現地の民族衣装であるサリーをよく買いました。(他に娯楽がなかったもので・・・。)
現地の人たちは原色系の物を好みますが、彼女たちの肌の色(うす茶からこげ茶)だと原色の方が似合うということも大きかったようです。「ほら、マダム(私のこと)と違って私たち肌の色が黒いからさ、こういう色がいいのよ」とのこと。「きらびやか」というほどのことでもないですがデザイン的にも概ね華やかなものが好まれていました。
あと、サリーを着こなすのに必要なのはスタイル。あれが似合うのは1)スタイルがいい人、2)体格がいいor太っている人で、要するに(出てなくていいところも出てていいから)少なくとも出るところは出ていることが重要。私なんかが着ると胸の辺りがすかすかで完全にサリーに着られている感じになってかなり貧相でした。(悲しかった。)
ちなみに「赤いサリー」は花嫁衣裳なので、うっかり赤系のサリーなんか着ると「花嫁みたーい」と言われてちょっとバツの悪い思いがします。
近年は現代版民族衣装のサロワカミューズ(アオザイの上下がゆったりし感じのデザインのツーピースにオロナという大きなスカーフのようなものを羽織る)を来ている若い女性も増えましたが、お祭りの時や既婚の人の場合は「やっぱりサリー」という女性が大半でした。今でも多分そうだと思います。私は布好きなので今でも何着か手元にあります。(実家にはもっとあるな・・・。どうするつもりなんだ>自分。)
posted: liyehuku (2005/05/28 1:09:31)
コメントありがとうございます。
そうですね、おっしゃるとおり肌の色はポイントでしょうね。
そういえば、私もモロッコの衣装(名称は失念しました)が実家のどこかに残っているはずです。
現地で着ている分には確かに快適なんですが、日本に持って帰って着てみると、ただのあやしいコスプレ…ていうか似合わねーのなんの。もう虫食いの穴だらけになってるかもしれませんが、ホント、どうするつもりなんだ<自分。
posted: とんがりやま (2005/05/28 14:42:19)