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[exhibition]ゴッホ展

ゴッホ展—孤高の画家の原風景 ファン・ゴッホ美術館/クレラー=ミュラー美術館所蔵
●東京展 2005年3月23日〜5月22日 東京国立近代美術館
●大阪展 2005年5月31日〜7月18日 国立国際美術館
●名古屋展 2005年7月26日〜9月25日 愛知県美術館
●東京展 2005年3月23日〜5月22日 東京国立近代美術館
●大阪展 2005年5月31日〜7月18日 国立国際美術館
●名古屋展 2005年7月26日〜9月25日 愛知県美術館
◎カタログ
発行:NHK・NHKプロモーション・中日新聞社
編集:東京国立近代美術館・国立国際美術館・愛知県美術館・東京新聞
デザイン:桑畑吉伸
開口一番の感想としてはアレだが、いやはや、関連グッズの数の多さに圧倒された(笑)。
図録やポストカード、一筆箋、記念切手などの日本展オリジナルグッズはもちろん、むこうの美術館から持ってきたマグカップからネクタイ、折りたたみ傘にいたるまでの様々な「ゴッホ・グッズ」が盛りだくさんだ。盛りだくさんすぎてゲップが出てくる。なんだかなぁ。
ま、ここまで「商売ッ気まんまん」だと、かえって微笑ましくもあるんだけど。
ところで、美術展には、その「見せ方」にいくつかの方向性がある。もっとも一般的なのは、とにかくひたすら作品を見せるというものだろう(当ブログで取り上げた中では、たとえばカルティエ宝飾デザイン展は「ひたすら作品だけを見せる」ことに徹して印象的だった)。
展覧対象が一人の作家の場合、年代記のように作品を順に並べる「回顧展」もあれば(たとえばディック・ブルーナ展や横山大観展、草間彌生展など)、特定の主題にスポットを当てることによってその作家の本質を端的にあぶり出す場合(たとえばマティス展やロートレック展)もある。
また、最近増えてきた傾向として、作家およびその作品が成立する過程やバックグラウンドを探求していくものもある(たとえばイームズ展)。この作品をそれ単独で鑑賞するのではなく、歴史的経緯や作家をとりまく周辺からの影響とともに再評価するというコンセプトは悪くないと思う。
今回のゴッホ展は、これだった。
ゴッホ展の企画・構成を担当した圀府寺 司氏は、カタログの序文でこう書いている。
美術史学や美術批評、画集、書籍など、文字を主としたメディアでは、画家を歴史的コンテクストとともに語ることが「正統」になったとはいえ、美術館という場、視角を主とする展覧会という「語り」で、このようなコンテクチャルな語りがどの程度可能だろうか。(12ページ)
圀府寺さんによれば、近代以降に建設された「美術館」なる容れ物は、もともと作品からその歴史的背景を消し去ったうえに成り立っていた(純粋に作品だけを楽しむ場)で、そういう場所に「美術品」以外の物件(作家の私的所持品とか)を持ち込むことは、近代的な美術館の存在理由とは矛盾することになる…ということだ。確かに、これまでの多くの展覧会は、ひたすら「作品だけを見せる」ことに注力していたように思うし、こちらも「虚心に作品と対峙する」態度が「良い鑑賞の仕方」だとなんとなく思ってもいた。
けれども、上にも書いたように、最近の展覧会は徐々に変わってきているようだ。作品それ自体に対する評価がほぼ確立されてしまった今、より立体的な展示のしかたを見出すことに、どの展覧会も躍起になっているのかもしれない。「音声ガイド」のオプションサービスを採用する展覧会がほとんど当たり前のようになってきたことも、このことと無関係ではないだろう。ま、こうやって手を変え品を変えやっていかないことには、カネのかかる美術展なんてとてもじゃないが大衆娯楽として成立しなくなっているんだろうな。
いずれにせよ、こういった切り口の編集は今後もますます増えていくと思う。特に、今回のゴッホのような、ひとつ間違うと「何を今さら」感がそこはかとなく漂ってしまいがちな作家に対する切り口としては、非常に有効な方法になるだろう。
…と持ち上げておいてナニだが(笑)、しかしこういう「切り口」が今回どこまで成功しているかという評価は、また別である。今回のゴッホ展の百数十点ある展示物のうち、ゴッホ作品は約半数くらいか? 日本でゴッホがまとめて見られる、と期待して足を運んだ向きには、もしかすると少々物足りないかもしれない。ていうか、私としてはちょっとハズされた感じだった。
ひとつには、展覧会に足を運ぶ前の観客に、展覧会のコンセプトがどれほど伝わっていたのかという疑問が残る。少なくとも、コンビニにも貼られていた宣伝ポスターからだけでは、本展は古典的な作家展、つまり「右を見ても左を見ても、とにかくゴッホだらけ」な状態を想像してしまう。今回かなり早くから、コンビニで大々的に割引前売券を売り出すなどプロモーションに力を入れていた筈だが、展覧会の意図を正確に伝えられなかった(伝えなかった?)のは、広告としては成功とは言えないだろう。
ふたつめとして、目玉となるべき作品が思いのほか少なかった、というのもある(物足りなさの理由としては、こちらの方が大きいかな)。今回のハイライトは、カタログの表紙にもなっている『夜のカフェテラス』(1888年)と、亡くなる2ヶ月前に描かれた『糸杉と星の見える道』(1890年)あたりだろうか。もちろん、このほかにも、ドラクロアやミレー作品の「模写」など見るべき作品は多いのだけれども、やはりこの2点の前に立っている時間がいちばん長かった。このクラスの作品がもう2、3点あると充分満足したんだけど。
まあ、なんだかんだ言っても、ゴッホの初期から最晩年までを一気に見ることができるのは、たいへん貴重な機会には間違いない。
ゴッホはその37年の短い生涯のうち、画家であった時代はわずか10年だった。しかし、日本の浮世絵をはじめ、良いと感じたものを貪欲に取り込んでいき、結果、その作風は短期間のうちに大きく変貌していく。ここまでさまざまな技法/スタイルを次々と消化していくのは、やはりフツーではない。
「生き急ぐ」というコトバがこれほど似合う人も少ないだろう。今回の展覧会場でそのダイナミズムの一端を垣間見ることができたのは、大きな体験だった。
2005 06 07 [design conscious] | permalink
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