« 素晴らしい効力 | 最新記事 | 踊る舞踊論(2) »
踊る舞踊論(1)

この年末年始は、舞踊論やそれに付随して身体論関係の本を集中して読んでいた。むかし買っていた本の再読もあれば、あらたに買い求めた本もある。
別にガクモンを極めようという大それた野望があるわけではない。ほんの数冊程度の読書だが、それでもいろいろなことを考えさせられた。
まず気になったこと。舞踊論とは、基本的に「舞踊とは何か」を探求する議論だと思うのだが、その際、「踊る身体と眺める観客」が必ずといっていいほどセットになっているのだ。まるで、観る人がいなければ、舞踊もまた存在しないかのように。
たとえば尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク 舞踊の現在/舞踊の身体』(勁草書房/2004年2月/ISBN4-326-85183-X ちなみに当ブログで以前書いた感想文はこちら)は、こういう文章ではじまる。
かつてダンスを見に行くとは、特別に輝く「選ばれた身体」を見に行くことであった。(p.2)
ここでの「かつて」とは19世紀以前を指している。文章は20世紀のダンサーの身体観が変容していくさまを順序よく紹介し、こういう文章で締めくくられている。
(前略)多分彼らは、理解可能であろうがなかろうが、すべての身体が「ふつう」の身体であり、輝く理想でもなければ恐るべき異形でもないという認識から出発している。一九九〇年代のコンテンポラリー・ダンスの噴出は、二一世紀の身体文化の中心が「選ばれたる者の身体」から「ふつうの身体」へと回帰することの予兆かもしれない。(p.22)
「彼ら」とは、「そのメンバーの大部分がバレエやモダン・ダンスの世界の外側で自らのダンスを開発していった者」で、従来の師弟関係に基づくダンス社会の制度からすれば部外者だという。つまり、伝統的なダンス社会では(演者も観客も)「選ばれた身体」だけが舞台に立つという特権を当然視していたが、彼ら部外者たちはその常識を覆し、「ふつうの身体」をもって踊り始めた。そしてそれが今後のスタンダードになるだろう、とする議論である。
なるほど、と納得するものの、どこかはがゆい印象がある。というのは、「踊り始めたふつうの身体」を、しかし依然として「観客が眺めている」構図自体は、この議論の中では一貫して変わっていないからである(じっさい、この書物全体を通じて著者は「観客論」へと議論を進めていく)。もう一歩すすんで、たとえば観客が観客であることをやめて、その場でいっせいに踊り出すことはないのだろうか?
あるいはまた、三浦雅士『考える身体』(NTT出版/1999年12月/ISBN4-7571-4014-2)では、「舞踊ほど根源的な芸術はない」と高らかに宣言し、こう続ける。
感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動するということがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動はそんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。
(中略)
この舞踊の醍醐味のなかで、感動とは身体の問題であると考えるようになった。(pp.8-9)
すぐれた舞台に接したときの興奮をそのまま写したかのような文章だが、しかしここでも「感動する私」は客席にいて舞台を「眺めている私」なのだ。この態度は、同じ著者の前作『身体の零度 何が近代を成立させたか』(講談社選書メチエ31/1994年11月/ISBN4-06-258031-4)ではもっとわかりやすい。この本は古代から中世、近世、近代へと文明と文化の変化に応じて、我々の身体もまた人工的に加工されてきた歴史を、豊富な文献の引用とともに丹念に掘り起こしているたいへん面白い一冊なのだが、終盤になってとつぜんバレエ〜モダンダンスの話題になり、読んでいてそこだけ若干違和感が残った。本の最初からずっと「私たちのふつうの身体」の変遷の話だったのに、バレエ以降の話になるといきなり「身体は見られるものになった」として、その美の体現者であるダンサーおよびモダンダンスというジャンルへの賛歌で終わってしまうのである。「私たちのふつうの身体」が、ここでは宙に浮いたままになってしまっている。
たった2、3冊くらいの例を引いただけで全てがそうだというのは乱暴に過ぎるだろう。しかし、少なくともこれらの著者は、観客席に身を沈め、目の前の踊る身体を眺めながら「舞踊とは何か」を思考している。我田引水というかなんというか、このブログのタイトル通り、彼らもまた「踊る阿呆を、観る阿呆。」なのだ。
ところが——これも以前書いたけれども——このフレーズのオリジナルは「踊る阿呆に見る阿呆」で、そのあとに「同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」と続くはずである。つまり、ただ見ているのではなく、自ら「踊る阿呆」になろうぜ、と誘っているのだ。
興味深いことに、ここでは「見る阿呆」つまり観客をとくに欲していないのである。観客など誰一人いなくともダンスはダンスである、と宣言しているのだ。これは「舞踊論」にとってきわめて挑発的な態度であると思う。少なくとも、このひとことで上の観客論的舞踊論の大半は不要なことになってしまう。
「観る阿呆」が「踊る身体」をあれこれ考えるのではなく、あるいは「踊る身体に感動する私」を云々するのではなく、「踊る阿呆」みずからが舞踊論を語ることは不可能なんだろうか。——この項、続きます。
2006 01 09 [dance around] | permalink
Tweet
「dance around」カテゴリの記事
- トリニティ・アイリッシュ・ダンス2018日本ツアー(2018.06.17)
- 【Ballet】眠れる森の美女(2018.05.13)
- 薄井憲二さんのバレエ・コレクション!(2018.04.08)
- DUNAS(2018.04.07)
- 55年目のThe Chieftains(2017.11.25)
comments
はじめまして。
このブログRSSに登録していつも見てます。
もともと、原始の、例えば民族(村?)の宗教的儀式祭りで、
音楽もダンスも一つだったんじゃないかと思ってます。
いや、想像ですけど。
でも「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」
って
たしか阿波踊りの歌詞だったような。
見て楽しむじゃなく、演って楽しい踊りです。
みんな太鼓を叩きながら踊ったり、
音楽とダンスの区別、
見る(聴く)ものと見ら(聴か)れるものの区別もなくて。
時代が下ると、文明が複雑化し、概念が様々に分化すると思うので、
音と動きが区別されるし、
プレイヤーとオーディエンスも区別されるようになったんだと思ってます。
(学問的な根拠は出せませんが)
分化されることによって、
踊りのつかない聴くための音楽とか、
自分が楽しむためじゃなく誰かに表現するためのダンス
とかが生まれて、
それらは、やっぱり分化される前のダンスや音楽とは作りが違うんだと思います。
複雑化・分化されたものが、再び単純化・未分化されることもあるでしょう。
アイリッシュダンスもフラメンコも黒人のいわゆるタップダンスも
音楽とダンスが未分化されたものですよね。
プレイヤーとオーディエンスが未分化された活動もあると思います。
宮澤賢治などは「農民芸術」といって、
遠いところにある「プロ」の芸術よりも、
庶民(農民)の一人一人の手によって芸術活動をしていこう、と言っています。
なんてことをこの記事を読んで思ったり思い出したりしました。
もっと続けるとマルクスの話になりますが。
コレせっかくここまで書いたんで、自分のブログの記事のネタにもできそうです。
posted: カトレア (2006/01/11 2:15:01)
コメントありがとうございます。
分化/未分化のお話、興味深く拝読しました。特にダンスや音楽は、人間の身体にとってより根源的なものだと思うので、他の芸術に比べて分化/未分化の境がかなり曖昧だったり、あるいは分化と未分化を一定のサイクルで繰りかえしているのかもしれませんね。いろいろ考えるのは本当に楽しいです。
posted: とんがりやま (2006/01/11 14:13:41)