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踊る舞踊論(2)

 
 もちろん「踊る私」を語った本は、舞踊論とは別にこれまたたくさん刊行されている。バレリーナの自伝、フラメンコ・ダンサーのエッセイからハワイアン・フラやインド舞踊の入門書、日本舞踊の手引きまで、ちょっと大きめの本屋に行けばすぐに何十冊と見つけることができる。けれども、これらはみな「個々のダンス」に特化した、いわば各論である。
 
 たとえば、群司正勝『おどりの美学』(演劇出版社/1959年11月初版/ISBN4-900256-40-4)の中で

 日本舞踊には一つの否定の論理がある。それは舞踊は動くというのが、その根本原則であるのに、日本の舞踊には動かぬことを理想とする観念がある。(p.145)

 と書き、続けて上方舞井上流の井上さたの言葉「動かんやうにして舞ふ。つまり表現(あらはしかた)を内省(うちらに)して、出来るだけ描写(ふりとて)を要約(つづめるように)するのどす。ぢつとしてゐて舞ふ。(『佐多女芸談』)」を引用するとき(注:原文のふりがなはここでは括弧書きにしている)、それはダンスそれ自体の多様性を認めつつもその中で日本舞踊の特質を浮き彫りにしようと試みているものだし、あるいは橋本ルシア『フラメンコ、この愛しきこころ —フラメンコの精髄—』(水曜社/2004年9月/ISBN4-88065-128-1)では「たとえば歌舞伎役者がクラシック・バレエを基礎として習うことなどはありえない」として
私自身は、あらゆるジャンルの踊りが好きであり、クラシック・バレエも同様で、それぞれの踊りに尊敬とシンパシーの念を持っている。もし人がそれを好むなら、一直線にそれに向かえばよいと思う。しかしフラメンコの基礎などと考えるのは愚かな幻想である。(p.367)

 と書くとき、著者はやはり自分の愛するフラメンコに「一直線に」向かっている。これはむろん当たり前のことで、なにかを究めようとする人はこうでなければならないはずだ(急いで付け加えるが、『おどりの美学』は日本舞踊の、『〜この愛しきこころ』はフラメンコについての、それぞれ非常にすぐれた内容であり、かつ他ジャンルの舞踊をもきちんと視野に入れていてたいへん見晴らしの良い本である。だから、他のジャンルの愛好家が読んでも得られるところは豊富にあると思う)。
 ヒップホップのストリートダンサーにとって世阿弥の花伝書はたぶんピンと来ないだろうし、阿波踊りがうまくなりたい人にとってバロック・ダンスのステップの解説書はまるで役に立たないだろう。そこで前衛的な実験をやりたいのならともかくも。
 このように、「踊る私」が舞踊について語るとき、そこにジャンルという深い河がどうしても横たわる。すぐれた見識を持った踊り手ならば他ジャンルへ通じる小さな橋を架けることもできるが、しかし橋を架けること(つまり舞踊ぜんたいを大きく語ること)は彼または彼女の最終目的ではない。どうしても「踊る私」が属している個別のジャンルを深く語るのが第一義になってしまう。
 
 
 ところで、いま、さまざまな舞踊ジャンルを挙げたが、現在ほど「ふつうの人々=ふつうの身体」が趣味として踊りを楽しんでいる時代はかつてなかったのではないだろうか。たとえばフラメンコ教室に通う人の数は、日本が世界中でいちばん多いという話を聞いたことがある。それはバレエでもフラでもインド舞踊でも社交ダンスでも、おそらく事情は同じだろう。毎日毎週、日本中のカルチャーセンターにはおおぜいの「踊る阿呆たち」が集っているのである。
 
 彼ら彼女たちは、どうして踊るのだろうか。年に一度か二度のおさらい会のため、というのももちろん多いだろう。市民会館を一日借り切っての大がかりな発表会だけでなく、たとえばアイリッシュ・パブで軽やかなステップを踏んで酔客から盛大な歓声を浴びたい人もいるだろうし、地元のお祭りできらびやかな衣装を身につけて誰よりもいちばん目立ちたい、という人も多いにちがいない。前回挙げたような「観客論的舞踊論」をあてはめれば、これらの人々は「観られる身体」により意識的な、その意味で古典的なダンサーである。
 
 一方で、ダイエットやなんらかのセラピーを目的としてダンスを始めるひとたちがいる。この人々は、踊る姿を見知らぬ第三者に直接見せることは望んでいない。なぜなら、あくまで自身の肉体的改造あるいは精神的治癒が目的だからだ。トレーニングの結果「ダイエットに成功してスリムになった私」なら観られたいだろうが、その目標途上にある「ダンスしている私」の姿は他人に知られたくないはずだ。観客を拒否しているという時点で「観客ありきの舞踊論」からは視界の範囲外だろう。しかし、これもまた、まぎれもなくダンスであるはずなのだが。
 
 
 「観られたい私」と「観られたくない私」。踊る阿呆たちは、この2種類に分けられる…のか? いや、もうひとつ、「ただ踊りが好きなだけ」という一群も、少なからず存在しているのではないだろうか。ダイエットや健康維持のためという「実利効果」も少しは期待しているかもしれないけれど、それが主な目的ではない。かといって人前でこれみよがしに自分のダンスを見せつけるために練習しているのでもない、いわば「ただ純粋に踊る」人々。
 それに、年に一度の発表会が目的で一所懸命練習している人だって、そもそも最初は「楽しそうだから」そのダンスをはじめたはずだ。まずダンスの魅力があり、発表会という「ダンスを続けるための自分への言い訳」が途中でひとつ増えたにせよ、「楽しいから」という当初の感動はなくなっていないはずだ。アマチュアであり、趣味なんだから、それで当たり前だと思う。新しいステップを教えてもらえるのが面白いし、同じ趣味の仲間と大勢出会えるのが楽しいし、だからダンスがやめられない、という人々は、ダンス人口のなかでけっこうな割合を占めているという気がする。逆に、そのサークルの人間関係が満足いくものではなくなって、ダンス自体をやめてしまった人もかなり多いのではないだろうか。
 
 ダンスはなぜ面白いのか、どうして人を夢中にさせるのか。そもそも舞踊とは何なのか。観客席からの分析ももちろん興味深いのだけれど、あくまで踊る側から考察された、それもふつうの身体しか持っていない人にも通用するような、そんな舞踊論はないものだろうか。個別の舞踊ジャンルに特化せず、現在活況を呈しているダンスの大半にあてはまりそうな、そんな舞踊論が読んでみたい。
 
 あるいはその答えのひとつかもしれない、一冊の本を次に紹介したい。——この項、続きます。

2006 01 11 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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