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踊る舞踊論(3)

 

shikaku

●舞踊論の視角
 小林正佳著/青弓社/2004年1月刊
 ISBN4-7872-7175-X
 装丁:柳忠行
 
 「踊る私」が舞踊を広く論じようとするとき、そこでは個々の舞踊ジャンルを抽象し一般論へと昇華させなければならない。個別の舞踊に優劣や序列をつけるのではなく、みなそれぞれに特徴がありかつ魅力的であることは自明のこととして、議論の前提に置いておかなければならない。観客にとってのダンスではなく、「ダンサーにとって舞踊とは何か」という舞踊論は、おそらくそんなスタンスをとらない限り不可能だろう。
 
 この本の著者は、あとがきなどからかろうじて日本の民俗舞踊の踊り手であることはわかるものの、それが具体的にどういう踊りなのか、この本のなかでは詳しく述べられてはいない。著者の前作『踊りと身体の回路』ではそのあたりも具体的に語っていたそうだが(私は未読)、
(前略)しかし一方では、文体のせいか、注がないせいか、きわめて私的な文章として受け止められた面がないではなかった。
 もちろん、そこで綴られていたのが民俗舞踊をめぐる自分自身の経験や実感だったことは間違いない。しかし、わたし自身そこで、自分の主観的感想や印象を述べようとしたわけではまったくない。(p.231)

 と、その具体性が災いして個別の特殊性へと還元されてしまったことが残念だったようだ。だから、この本では著者がどんな舞踊を踊っているのかは注意深く取り除かれている。
 それでも、この本で論じられている舞踊が主に「民俗舞踊」つまり伝統的かつ民族的なダンスであり、かつそれが主題であることは明瞭だ。決してバレエ〜モダンダンス〜ポスト・モダンダンス〜コンテンポラリー・ダンスへと続く、西欧型の芸術舞踊を中心に置いたものではない。とはいえ、伝統的な民俗舞踊が最先端の芸術至上主義ダンスと必ずしも相容れないものではないはずだし、むしろ両者を大きく包み込む、もっと大きな舞踊論があっていいはず、なのだ。この点、バレエやモダンダンス「だけ」を観てその美学的意味を云々するいわゆる一般的な「舞踊論」の方こそ、逆に視野狭窄と言われてもしょうがないだろう。
 
 
 ところで、ひとりの個性的なダンサーによる芸術的かつ先鋭的なダンス舞台を論じる場では、民俗/民族舞踊はまったく無視されるか、単に伝統的なバックグラウンドとして処理されてしまいがちだ。その際、もっともよく使われるフレーズに「名もなき人々の生の営み」云々、というものがある。民衆は日々の生活に追われながら、しかしその営みの中で巧まずして後の世にまで伝わる芸術を、本人もそうとは意識しないまま創りあげる…民衆芸術、伝統芸術と呼ばれるものの担い手は、かならず「無名の人々」でなければならないかのような、この使い古されたフレーズに、しかし著者は異議を申し立てる。
 もちろん、民俗舞踊に携わる人々は、広く世間に名の通った「有名な」人たちではない。その意味では、なるほど「無名」かもしれない。とはいえ、彼らが誰なのか、そのことが、いつでもどこでも問題にならないわけではない。むしろ、ときにはそのことこそがなにより大切で、少なくとも実際に舞踊が演じられる共同体の内側に身をおく人々にとっては、常に、尋常ならざる重要性さえもっている。
 演者が誰なのか、ある具体的演者と自分との関係が何なのか。通常そのことは、いつでも明確に意識されている。だからこそある踊りは、どこの誰によって演じられてもいいわけでは決してないのだ。さらには、一人ひとりの演者の違い、あるいは演技の質の違いといった事柄が、共同体のなかでは頻繁に話題の種となってさまざまに論じられる。こうした意味で、舞踊は常に、誰だかわからない「名のない」人物によってではなく、きわめて具体的な「名のある」誰かによって演じられるといったほうがふさわしい。(p.76)

 このくだりは単に舞踊だけにとどまらず、お茶やお花や、あるいは絵画や書道など、いわゆる「習い事」を経験された方なら大いに同意されるのではないだろうか。こと舞踊に限ったとしても、日本の伝統芸能だけでなく、バレエやフラメンコなど西洋のどちらかといえば「モダン」とされているダンス教室であっても、おそらく事情はそれほど変わらないはずだ。むしろ、「有名な」スター先生を抱えるダンス教室ほど、その共同体の結束も固いかもしれないし、ライバル先生のいる他の共同体との確執や縄張り意識も強かったりするかもしれないのである。
 
 ここではいくつか重要な点が指摘されている。まず、舞踊が演じられるのは「共同体」であるということ。次に、その共同体の中での人間関係が常に重要だということ(「尋常ならざる重要性」というあたりに著者の実感が込められていると思う)。
 伝統的な舞踊のみならず、たとえコンテンポラリーダンスのカンパニーであっても、ダンスは多くの場合なんらかの共同体を必要とする。舞踊はまず、観客より以前にその共同体の場で踊られ、批評的な視線にさらされる。ふつうの観客と違うのは、その踊りを観ている者は同時に自らもダンサーであるという点だ。見ず知らずの一般観客と、共同体の内側のいわば身内とでは、とうぜんダンスの見方は異なってくるし、なにより踊り手自身そのことを意識しないわけはなかろう。一般的な観客がいなくとも、いやいないからこそ、そこでのダンスはある意味でもっとも厳しく研ぎ澄まされたものであるかもしれないのだ(同じ意味で、もっとものびのびとリラックスしたダンスであるとも言える)。
 
 この共同体は、そのままダンスを教え伝える場でもある。そして、ダンスとは常に「教え-教えられる」関係のなかにしか存在しないものである。これは、コレオグラファーが自身のカンパニーのダンサーに振付をおこなう場合でもそうだし、ダイエット目的のエクササイズ・ダンスなら先生の作成したプログラム通りに身体を動かしていくのが当然だ。仲間どうしで新しいステップを教え合うこともあるだろう。ダンスは「教えられるもの」——これはほとんど全てのダンスにあてはまる、かなり普遍性のある事実だ(むろん例外はある。自身がそのジャンルの創始者だったり、完全なソロだったり、まったくの即興ダンスしかやらないグループがいたとしたら、こういう「教え-教えられる」関係は希薄かもしれない。しかしその場合でも、身体の有効な動かし方など過去のすぐれた理論や実例をまったく無視した、100%オリジナルなどあり得ないはずだが)。
 ダンスにおいて「どの先生に習ったか」「どこでダンスを学んだか」はかなり重要視されている(著者に倣って「尋常ならざる重要性」と言っていいくらいだ)。端的に、その人のダンスの傾向はそれだけでおおよそ掴めるものだ。井上流ですと言うだけで、ああ京舞ですねと了解できるし、オペラ座バレエ学校出身とかベジャール・バレエ団に何年間在籍していたとかいうだけで、そのダンサーの資質がある程度わかってしまうということもある。伝統的な民族舞踊の場合だと具体的な先生の名前以前に、どこの地方の出身かを聞くだけで、その人のスタイルがほぼわかってしまう場合も少なくない。このように、ダンスにおける「共同体」とは、ほとんどその人のアイデンティティと同義であったりもするのだ。そこに同化するにせよ、反発しそこから飛び出して行くにせよ、まずはじめに「共同体」ありき、なのである。このことは「ふつうの観客」が想像する以上に、ダンスにとってきわめて重要な要素なのだと思う。
 
 もしもダンスはひとりでは成立しない、というなら、踊り手-観客という関係よりもむしろ、踊りの先生-その生徒という関係を論じる方が、ダンスにとってより本質的と言えるのではないか。なぜなら、観る-観られるという関係はすでにこの中に含まれているからだ。
 もしもダンスが言葉以前の身体コミュニケーションである、とするなら、踊り手の身体とそれを眺める観客の視線を論じるより前に、ある身体から別の身体へ、同じダンスがどう伝承されていったかを検証する方が先ではないだろうか。なぜなら、ダンスの変容とは、常にその過程にしかあり得ないはずだからだ。
 
 事実、この本の後半は「型」について、あるいは「稽古」について、詳しく論じられている。むしろそちらのほうがこの本の主題でもあるのだが、私はその前段の部分にのみずいぶん反応してしまった。ともあれこの一冊は、観客の側からの舞踊論ではない「踊る舞踊論」として、重要な示唆をたくさん含んでいると思う。
 
 「踊る舞踊論(1)」でみたように、「選ばれた特別な身体」ではなく「ふつうの身体」が今後のダンスシーンでより重要になっていくとするならば、そしてその「ふつうの身体」をただ眺めるのでなく「ふつうの身体を持った踊る私」としてダンスを考えるならば、そのダンスは「ふつうの身体が属するふつうのコミュニティ」を前提にしないかぎり、現実と乖離したおよそ理解不可能なものになっていくはずである。(了)
 
 
 * * *
 
 私が本書を読んだのは出版されて間もない2004年のはじめで、なんどかこのブログに感想文をアップしようとしていたものの、うまく考えがまとまらずに結局丸2年もほったらかしになってしまった。何年かのちにはまた自分の考えも変わっているかもしれないが、今はとりあえず、長年の宿題をようやく終えた気分であります。

2006 01 14 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

気になりながら、遅くなってしまって、今頃になって、コメントつけてますが・・。
実践の生まれる共同体に着目するというのは、いいところですね〜。
で、おすすめが・・
「生き方の人類学」田辺繁治著、講談社現代新書、です。
文化的実践についての人類学の研究で、具体的な話は北タイのことが書いてあるのですが、新書なのに、かなり深い理論的な話が多く、著者も「全然一般向けじゃない〜」なんて言ってた。著者は私のかつての師とも言える人で、音楽に身をもちくずしてからも、優しくしてもらってる、今でも頭の上がらない人です。。そんな「実践」とそれが生まれる「共同体」ということを考えるには、めちゃ参考になるかも。こういったことが、音楽論やダンス論は、あんまり追求しきれてないような、ものたりない気がしてます。

posted: tomo (2006/02/07 21:14:17)

 コメント&本の紹介、ありがとうございます。さっそく明日、本屋に走りますっ!
 なるほど、共同体研究となると文化人類学方面になるんでしょうねぇ。関心を向けなければならないジャンルが、またひとつ増えました。ご教示に感謝します。m(_ _)m ふかぶか。

posted: とんがりやま (2006/02/07 22:39:21)

 

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