« この娘うります! | 最新記事 | 伝説の?タイポグラフィ本 »
[exhibition]:ドイツ写真の現在

●ドイツ写真の現在——かわりゆく「現実」と向かいあうために
東京展:2005年10月25日〜12月18日 東京国立近代美術館[momat.go.jp]
京都展:2006年1月6日〜2月12日 京都国立近代美術館[momak.go.jp]
丸亀展:2006年3月12日〜5月7日 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[mimoca.org]
【カタログ】
発行:読売新聞東京本社
デザイン:服部一成、山下智子
したがって、1990年は、ドイツ写真にとって、二重の意味を持つ転換点であったと考えることができるのだ。(p.7)
第一の転換点は、この年にベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻がヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を獲得したことにより、ドイツ写真界が一気に活性化したこと。もうひとつは言わずもがな、前年のベルリンの壁崩壊によって東西ドイツが再統一されたこと、を指している。
本展は、そのベルント&ヒラ・ベッヒャーの作品を皮切りに、現代ドイツ写真の潮流を概観できるショウ・ケースである。
収録作家は10組。少々物足りない気もするが、その分コンパクトにまとまっているとも言えるかも知れない。
…などと偉そうなことを書いてるが、私はドイツの写真界について何もしらない。さすがにベルント&ヒラ・ベッヒャーが撮った一連の産業建築物シリーズは、そのむかし雑誌かなにかで見た記憶があるが、他の作家は全くの初見だ。
まずざっと1周してみて、どの作品も硬質でとてもストイックな印象を受けた。これがドイツ流なんだろうか。それから、さらに会場をゆっくり2周し、こんどはひとつひとつをじっくり見ていった。たとえばミヒャエル・シュミットの連作シリーズ「統一」(1991-1994、全163点組のうち68点を展示)は歴史のかわりめに立ちあった者ならではの迫力と面白さが感じられたのだが、それとてひとつひとつの写真は、まるで時間を強力な接着剤で固定しているかのように、動きがしっかりと止められている。ドキュメンタリー写真として考えるならば、これはかなり異色なんではないだろうか。
大口径のレンズで画面の隅々にまでピントを合わせ、手持ちではなく三脚を使ってきっちりと計算されつくした絵を作る…もちろん全ての作家が同じやりかたをしているのではないが、総合的な印象としてはそんな感じ。スピード感だとか動的な感動を表現するのではなく、時間をそのままフリーズさせたような作品が多く、しかもそれをびっくりするほど大きな用紙にプリントするから、どれも超現実的というか非現実的な光景に見える。もっといえば、どの写真もみんな作り物のように嘘っぽく見えるのだ。…と、帰宅後カタログを読んではじめて知ったのだけど、たとえばベアテ・グーチョウのランドスケープシリーズなどは、一見ありふれた風景写真のようにみえて実はコンピュータで複雑に合成された作品だったのだ。なあんだ、嘘っぽく見えたのはそういうワケなのね。
どうやら彼ら写真家たちの眼には、「統一後のドイツという現実」が「超現実的というか非現実的な光景」に見えているんだろうな、と思う。展示された写真群が「作り物のように嘘っぽく見える」(事実「作っている」のだが)のは、展覧会の標題に結びつけて言うなら、彼らが<かわりゆく「現実」>とどうすれば<向かいあう>ことができるのかについて、いまだ戸惑い続けているからではないだろうか。そんなことを考えさせられた展覧会だった。
2006 01 30 [design conscious] | permalink
Tweet
「design conscious」カテゴリの記事
- 中川学さんのトークイベント(2018.07.16)
- 大塚国際美術館へ(2017.07.17)
- 『デンマーク・デザイン』展(2018.05.06)
- 薄井憲二さんのバレエ・コレクション!(2018.04.08)
- ブランドとしての<ブリューゲル>(2018.04.01)