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展覧会のハシゴ

 
 ふだん忙しいからってのもあるが、私はけっこう美術展のハシゴをする。って、あまりやる人はいないのかな。
 今回は、大阪・中之島の国立国際美術館『プーシキン美術館展』と、京都・四条河原町の高島屋グランドホール『ユトリロ展』のふたつを続けて見てきた。ま、近代フランス絵画つながりってことで。京阪電車一本で行けるしね。
 

Pushikin

●プーシキン美術館展
 東京展 2005年10月22日〜12月18日 東京都美術館
 大阪展 2006年1月11日〜4月2日 国立国際美術館
 
 【カタログ】
 デザイン:大溝裕、赤松幸子(Glanz)
 発行:朝日新聞社
 
 泰西名画…という言い方は最近はあまり聞かなくなったけれど、印象派をはじめとする、日本でもおなじみかつ人気の高い画家の作品が多く観られるという展覧会。印象派はやっぱみなさん大好きですねえ。たくさんの人でにぎわっていた。
 目玉のひとつ、マティスの「金魚」はやはり面白かったし、ゴッホの「刑務所の中庭」は(画集も含め)初めて観たけど、すっげー印象に残ったなぁ。…と、個々の作品についての感想はともかくとして、展覧会ぜんたいとして考えさせられたことがひとつ、ふたつ。
 この展覧会は、シチューキンとモロゾフというふたりのロシア人が、せっせと蒐集したフランス絵画コレクションを公開しているのだけれど、ひとつひとつの絵がとっっっっても大事に展示されているのだ。いや、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。
 
PushikinRoom 国立国際美術館の会場内では、シチューキンの邸宅での当時のコレクションの様子を写した写真が大きく引き伸ばされて飾ってある。その写真を見ると、まあなんて無造作に、所狭しと絵を並べてあることか。「ピカソの部屋」「マティスの部屋」など、ひとつの部屋じゅうある画家の作品だらけっていうのはクラクラくる。その写真は朝日新聞社の「プーシキン美術館展」特設サイト[asahi.com]の中にも使用されてるんで、そちらを参照していただければよりわかりやすいかと思うんですが(左の画像は同サイトのコンテンツから引用させていただきました)、ひとつひとつの絵についての解説なんかないのはもちろん、ここでは絵のタイトルすら、どうやら明示されていないみたい。
 ひるがえって、国際美術館の展示はというと、ひとつの作品をきちんと見せようという意識がものすごぉぉぉく強い。ひとつひとつ、全作品に残らずこと細かな解説プレートが付いてるし、次の作品に移るまでの間(ま)も充分すぎるほど取ってある(ここの美術館は常設展もそうですが、作品どうしの間隔をとくに広めに取る傾向があるんじゃないかな)。とにかく、非常にゆったりしているのだ。
 
 どちらがどう、といった話ではないんだろうけど、絵を観る意識というか、絵の見方が根本的に違ってくるだろうなあ、とは思う。日本展のように、ひとつの作品を大事に大事に扱うというのはもちろん重要なことなんだろうけど、なにもそこまで、とも思うわけで。つーか、だんだん解説パネルうぜー、とか思ってしまうのだ。主催者は絵を見せたいのか、それともその絵にまつわるウンチクを読ませたいのか、いったいどっちなんでしょ。
 
 展覧会全部、というわけにもいかないだろうけど、当時シチューキンやモロゾフが眺めていた同じ「絵の風景」を、日本でも再現するってできないもんですかね。一部屋ぜんぶ、びっしり絵画で埋め尽くされてる中を歩いてみたいと思ったのは私だけだろうか。かつて絵画はこういう並べ方をされていたんだぞ、というのを実感するだけでも、絵の見方ってずいぶん変わってくると思うんだけどねぇ。もっとも、それを「再現」するにはこの美術館はハコがのっぺりしすぎてるけど(たとえば京都市美術館や大阪市美術館だったらできないこともないはず)。
 
PushikinCD この展覧会では、今やすっかりおなじみとなった観のある「音声ガイド」サービスもしっかりやってたが、それがCDとなって販売されていたのにもビックリ。写真右、黄色い方が「子供用」、赤い方が「大人用」なんだそうで。いや、そりゃ、せっかく制作したものだしね、営業的にも有効に活用したいんだろうけど。
 でもねえ、展覧会場の解説パネルと同じく、耳からも「正しい絵の見方」を強制してどうすんのさ、とか思ってしまうわけですよ。と、話のタネならぬブログのネタにと、試しに買ってみたが(会場では聞いてない)、どひゃあ、というシロモノだった。絵の解釈について、主催者相手に美学的な論争するつもりはないけどね、こーゆーのって、当の学芸員はどう思っているんでしょ。そのうち出口でテストとかやり出すんじゃないかしらん。「正解」を書くまで帰れない、とかね(笑)。
 
 
 
 
Utrillo

●没後50年 モーリス・ユトリロ展
 東京展 2005年9月21日〜10月10日 日本橋高島屋8階ホール
 神奈川展 10月13日〜10月31日 横浜高島屋ギャラリー(8階)
 京都展 2006年1月7日〜1月29日 京都高島屋グランドホール(7階)
 大阪展 2月23日〜3月13日 なんば高島屋グランドホール(7階)
 愛知展 3月15日〜3月27日 ジェイアール名古屋タカシマヤ10階特設会場
 
 【カタログ】
 デザイン:頼田晃一
 発行:IS ART INC.
 
 まず驚いたのが、ユトリロって亡くなってからまだ50年しかたってないんだ、ということだった(1883〜1955)。てっきり、もっとずっと前の人かと思っていた。有名作家でもあるし、過去何度も日本で回顧展があったはずだけど、自分でも意外なことに、まとまった展覧会を観るのは今回が初めて。
 
 はじめて、ということはその略歴なんかももちろん知らなかったが、いや、この人、すごい人生だったのね。まず父親が誰だかわかならいし、のちに母親が再婚する相手というのがユトリロよりも3つも年下だったりするし、しかもその年下の父親がユトリロの敏腕マネジャーとして高く絵を売ってくるのはいいけど、もっぱら自分たちが贅沢したいからであって、当の作家本人は鉄格子の部屋で監禁状態だったという。ユトリロが結婚した1935年以降は奥さんがマネジャーとなるんだが、それも同じような感じだったらしい。この人は若くからなんども入退院をくりかえすほど精神の病を抱えていて、アルコール依存症でもあったということで、まぁ本人や本人を取り巻いていた人たちの気持ちは推し量りようもないんだけど。
 
 ユトリロの絵はこれまで、画集とか、上のプーシキンみたいな「○○美術館展」などフランス近代絵画をまとめて見せる展覧会のなかの一部としてなら観たことはあったが、まとめて観るとやはり圧巻だった。
 今回展示されていたのは、自画像が1点と花を描いた静物画2、3点を除いて、すべて風景画。ほとんどがパリの街角を描いたものだった。興味深かったのは、そのいずれも人がまったくいないか、いても点景のように小さく描かれているだけ、しかもその人物もほぼ全てといっていいくらい、みんな画面の奥に向かって歩いていく、つまり後ろ姿だったことだ。こちらを向いている姿はほとんどないのが印象に残った(あっても遠景なので、もちろん顔もない)。心理学とか精神医学とか、そっち方面からいろいろ分析やら解釈やらできそうな事柄なんだろうけど、それはそれとして、画面ぜんたいとしては明るく平穏な色彩に満たされた彼の油彩画群に囲まれているうち、「詩情あふれるパリの風景」とか「哀愁漂う作品」(いずれも本展チラシより)などとはまったく違う、どこかこの世ならぬものを感じてぞくっとしてきた。
 
 ちなみに『プーシキン美術館展』は入場料1,400円、『ユトリロ展』は800円。うーん、個人的には逆だなあ。

2006 01 20 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

こんにちは。
私もユトリロ展見てきました。
本当にあの人物描写の少なさには私も病的なものを感じました。漆喰の壁に対する偏執的な思い入れに較べて、人間には関心がなかったようですね。色彩の時代の虚ろで弱々しい明るさも、見ていてやりきれない感じになったものです。

>本人や本人を取り巻いていた人たちの気持ちは推し量りようもない
これもまったくその通りだと思います。周囲の人間(特に若い継父と年上の妻)が彼を利用した悪者のように解説されていますが、ユトリロの不幸を強調せんがために善悪を単純化しすぎた説明では?という気がするのですが。

posted: antoinedoinel (2006/01/28 18:41:56)

 コメントありがとうございます。
 ユトリロにはよく言われる「パリの哀愁を描いた画家」みたいなステレオタイプなイメージしか持ってなくて、わりと気軽に出かけていったんですが、実際にまとめて見ると圧倒されてしまいました。会場出口付近でお気楽にもユトリロ版画の販売をやってましたが、彼の数奇な生涯に思いを馳せつつ神妙な気分でいるときにそういうのを見ると、妙に違和感を感じてしまったり(苦笑)。

>ユトリロの不幸を強調せんがために善悪を単純化しすぎた説明では?
 そうですね。彼らにとって何が幸せで何が不幸だったのか、実際のところそんな簡単に説明できたり理解できるものではないんでしょうね。

posted: とんがりやま (2006/01/29 23:10:09)

 

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