ムハとミュシャ

●ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展 〜プラハからパリへ 華麗なるアール・ヌーヴォーの誕生〜
高松展 2004年11月3日(水)〜12月12日(日) 高松市美術館
東京展 2005年1月27日(水)〜3月27日(日) 東京都美術館
名古屋展 2005年4月27日(水)〜5月22日(日) 松坂屋美術館
浜松展 2005年6月10日(金)〜8月28日(日) 浜松市美術館
松江展 2005年9月16日(金)〜11月6日(日) 島根県立美術館
大阪展 2005年11月19日(土)〜2006年1月29日(日) サントリーミュージアム[天保山]
2004年末から2006年はじめまで、長期間にわたり国内6会場で開かれたアルフォンス・ミュシャ展。大阪はその最後の会場である。評判だけは以前から聞いていたこの展覧会、私もようやく観ることができた。しかし、首を長くして待っていた甲斐はあったと思う。
他の会場の構成は知らないのだが、大阪展のサントリーミュージアムは5階と4階のふたつに分かれている。観客は5階から入って途中大阪港が望める休憩室をはさみ、階段を降りて4階の展示を見る、という流れだ。今回のミュシャ展は、いつもより増してこの構造を上手く使って構成されていたように感じた。
ミュシャといっても、19世紀末パリで一世を風靡した、あのミュシャしか私は知らない。というか、日本ではいままでそういう紹介の仕方しかされていなかったように思う。「ミュシャ展」と銘打たれたものはこれまでにも何度か観たが、いずれも「アール・ヌーヴォーの精華」としてのミュシャでしかなかった。なのでこの展覧会も、最初は「なんだ、またあのミュシャか」だった。
サントリーミュージアムの5階の展示はまさに「あのおなじみのミュシャ」であり、下絵や習作など完成品以外の絵も観られるという点では貴重だったものの、大半はすでに見知っているものばかりだったので(とはいえやはりサラ・ベルナールの一連のポスターなど、原寸ならではの面白さと迫力に満ちていて見応えがあった)わりあい足早に、気軽に眺めていただけだった。
おや、と思ったのは後半、つまり4階に降りてからで、まず「マタイによる福音書」を主題にした『主の祈り』の下絵に目を奪われ、さらに『幻影』や『森の中の少女』などのパステル画の一群に打ちのめされた。そこには、一夜にしてパリの寵児となった耽美なスター作家ではなく、たとえば同時代の象徴主義の画家ムンクの世界にも重なるような、存在への不安や悲劇的なロマンティシズムに満ちた<悩める近代人>がいたのである。
展示されていたパステル画は、いずれも1900年前後のものということである。ミュシャが商業的な成功をおさめた、いわば絶頂期でもある。華やかで官能的でひたすら甘い、いわゆるミュシャ様式の装飾作品の注文が殺到していた頃、その一方で、彼はおそらくはただ自分自身のためだけに、木炭やパステルを紙に描き殴っていた。オモテとウラ、光と陰——というふうな理解でいいのかどうか、ともあれこれらのドローイング(ディテールはほとんど判別できない粗書きの素描ばかりだ)が彼の内部からの切実な要請に衝き動かされて描いたものだろうことは容易に想像できる。
Alphonse Mucha は1860年7月、現在のチェコ共和国東部のモラヴィア地方に生まれた。「ミュシャ」はフランス語読みで、母語の読みでは「ムハ」になるんだそうだ。ミュンヘンの美術アカデミーを卒業後パリに来たのが1888年、生活のため雑誌イラストレーションの仕事に従事、ベルナールのポスターでパリ中にその名を馳せるのが1895年はじめだから34歳なかばだ。決して早熟の天才というわけでもなかった Mucha は、このときから「ミュシャ」になった。
名声も金も、当時のミュシャなら両手に余るほど持っていたかもしれない。しかし、その場所に安住しあるいはその地位にしがみつくような選択を、ミュシャはとらなかった。パリでの成功をもとに彼は2度アメリカに渡り、パトロンをつかまえたのち、1910年に故郷のチェコに戻る。人気作家になってから15年後のことだ(ということは、アール・ヌーヴォーの最先端の画家だった時代は、わずか10年あまりだったのだ)。母国に戻ってからは自国と自らの民族的アイデンティティのために精力的に働き、その成果は1920年代の終わりに全20点の、とんでもないスケールの超大作『スラヴ叙事詩』に結実することになる。
苦労時代が長かった分、そのまま華やかなパリ社交界の中心に居続け、人気作家の座を手放さない生き方も可能だったはずだ。しかし彼は生まれた国へ帰り、祖国の民族的文化的発展のために力を注ぐ道を選ぶ。パリやニューヨークで華々しい成功を収めたミュシャはおそらく“おらが国の英雄”でもあったことだろう。だがその前に、フランス語の「ミュシャ」ではなくスラヴ語の「ムハ」に戻れたことが、彼にとってはなによりも大きな喜びではなかっただろうか。
このことを考える上でたいへん興味深いふたつの肖像画が、4階の一隅に並んで展示されていた。一枚は後に彼の妻となる『マルシュカの肖像』(1903年)で、いかにもスラヴ系の顔立ちの、快活そうな女性のポートレート。もう一枚は、ミュシャが人気の絶頂にあった1900年前後に特別親しかったという女性、『ベルト・ド・ラランドの肖像』(1904年)である。レースの美しい衣装に身を包んだ、しかしどこか物憂げで繊細な表情のこの女性は、「ミュシャと別れた後、ベルトは一度も結婚することなく、1957年に亡くなったという。」と解説文に記されている。パリのひとなんだろうか、「ミュシャがその生涯の足跡から消し去ろうとした痕跡があるらしい」ということなので詳しいことはまるでわからないのだが、アルフォンス・ミュシャが自身の後半生を決断した、その選択と無関係ではあり得ないだろう。画家が選んだものと捨てたもの。ふたりの女性をめぐる、それこそ一篇のヨーロッパ映画にでもなりそうなドラマが、この2枚の肖像画の間から立ち昇ってくるかのように、私には思えた。
そういうわけで、たいへん充実したいい展覧会だったんだけど、不満がないわけではない。パリで無名の貧乏画家だったムハが「ミュシャ」になって以後のことはとてもよくわかったのだが、それ以前の絵が少なかったのがちょっと残念。
出世作となったサラ・ベルナールのポスターは、最初からミュシャ独自のスタイルを持っていた。では、その<ミュシャ様式>はどのような試行錯誤の上に成り立ったのか、そのあたりがもう少し知りたかった。あの、ひたすら過激なほどに装飾的で有機的なデザインの成立前史を見せてもらえたら、一作家の回顧展としてさらに完璧だったに違いない。
2006 01 04 [design conscious] | permalink
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comments
あけましておめでとうございます。
私も昨年2度、ミュシャ展に行ってきました。美術に目を向けるようになったきかっけの人物なので、特に期待をしていました。
とんがりやまさんのご指摘の通り、今回の目玉は「4階」でしょうね。5階のミュシャ・ワールドは、色んな画集などで目にしていたものが多かったので、「ふーん、なるほど」という程度でしたが、4階の展示品はかなりショッキングでした。
5階:外向け(生活の糧を得るための絵画)
4階:内面(個人を見つめた絵画など)
という感じでしょうか・・・。
もし「ミュシャ展」という看板が出ていなかったら、4階と5階の作品が、同じ作者のものだとは思えないんじゃないかなと思います。
posted: ヘルガ♀ (2006/01/05 9:44:50)
コメントありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
日本初公開の作品も多く、おかげでミュシャを多面的に知ることができたいい展覧会でしたね。
連作『スラヴ叙情詩』はぜひ観てみたいものですが、さすがにアレはプラハまで出かけなきゃ無理なんでしょうねえ。写真をみる限りでは、絵画を鑑賞するというより壁画に取り囲まれるって感じのようですが、一度でいいから圧倒されてみたいものです。
posted: とんがりやま (2006/01/05 21:46:16)
そうですねえ、僕も「スラブ叙事詩」は、是非生で見たいと思いました。さすがにあの大きなものを持ってくるのは不可能でしょうし、ミュシャが祖国スラブについて、心をこめて描いたものですから、本場で見るのがミュシャに対する敬意かなと思います。
あと気になったのが、ステンドグラスでした。その下絵は見ることができましたが、これも本物を見たいなと思いました。
posted: ヘルガ♀ (2006/01/06 9:00:39)