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レオナール・フジタ展がやってくる
今年(2006年)もっとも楽しみにしている展覧会のひとつに、もうすぐスタートする『藤田嗣治展』がある。
○東京展 2006年3月28日(火)〜5月21日(日) 東京国立近代美術館[momat.go.jp]
○京都展 2006年5月30日(火)〜7月23日(日) 京都国立近代美術館[momak.go.jp]
○広島展 2006年8月3日(木)〜10月9日(月・祝) 広島県立美術館[hpam-unet.ocn.ne.jp]
参考:概要紹介ページ[momat.go.jp]
この人のまとまった展覧会を見るのは、そういえば20年ぶりになる。
●生誕100年記念 レオナール・フジタ展
1986年10月31日〜11月25日 小田急グランドギャラリー
1987年1月3日〜1月13日 大丸心斎橋店
1987年1月22日〜2月3日 大丸京都展
1987年2月7日〜3月1日 広島県立美術館
1987年3月3日〜4月5日 福岡県立美術館
カタログ:制作.アートライフ
図録にふたりのフランス美術鑑定家の「全て真作である」という鑑定証まで掲載されているにもかかわらず、展覧会開催期間中に著作権継承者から「出展作品の中に贋作が含まれている」として、カタログ販売が差し止めになるという騒動があった。当時新聞で大きく扱われたことを今も覚えている。さすがに細かな記事内容までは覚えていないが、フジタの展覧会を国内で開くことは大変に困難なのだ、ということはよくわかった(本当に贋作が含まれていたのかどうかは知らないし、他にも理由があったような気がするが、どのみち曖昧な憶測でしかないのでここでこれ以上は詮索しない)。
理由やいきさつはともあれ、こうやって久しぶりにこフジタの作品がたっぷり眺められるのは本当に嬉しい。20年前のカタログは、差し止め云々という報道もあって急いで買ったんだけど、実物とのあまりの違いに愕然としたことは強く印象に残っていて(しょせん印刷物はこんなもんだなあ)とがっかりしたものだった。フジタの代名詞でもあるあの“乳白色の肌”はやはり実物でなければ出せない色味だろう。この機会に、じっくり瞼に焼き付けておきたいと思う。
なかなかお目にかかれない、という意味で「幻の作家」なのだが、今回は偶然こういう本を先に買っていて、それがまた非常に面白い本だったので、ますます展覧会が楽しみになってしまった。
●藤田嗣治「異邦人」の生涯
近藤史人著/講談社文庫/2006年1月初版(単行本は2002年11月刊)
ISBN4-06-275292-1
カバーデザイン:柳川昭治/デザイン:菊池信義
著者はNHKのディレクターをやっていた人で、同書は1999年に放映された「NHKスペシャル 空白の自伝・藤田嗣治」の取材を通じて得られた資料をもとに書かれた、綿密な伝記だ。
著者によれば、藤田嗣治は<その作品と実像は、厚いベールに包まれてきた>謎の多い画家だという。日本国内には画集や伝記も含め資料が少なく、あっても批判的な論調が多いらしいのだが、<パリでは今も最も有名な日本人画家>なのだそうだ。なぜこういうギャップが生まれたのか、どうして日本国内で悪い評判ばかり立てられてきたのか。そのあたりの複雑でデリケートな事情を、この本はわかりやすい文章でていねいに解きほぐしてゆく(余談だが、テレビディレクターって平易で頭にすっと入りやすい文章を書く人が多い気がする)。
私は残念ながらそのテレビ番組は見逃している。というかそんな番組があったことも今回初めて知ったクチなのだけど、これはDVD化して会場で販売して欲しいなあ。
藤田嗣治は終生<日本人であること>を誇りにし、故国の名を世界に知らしめるべく必死に働くのだが、そうすればするほどかえって母国から誤解され<国辱>とまで言われ続けた。結局、老年になって日本国籍を捨てフランスに国籍を移し、さらにカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと改名するに至った。なぜそうしなければならなかったのか、その経緯はとてもじゃないが要約できない。興味のある方は本書を直接お読みいただきたい。
著者はこれまでの日本国内に流布されてきた「フジタ論」への再検証も行っている。どちらの理解が正しいかとかいうのはさておき、既存の権威や評価をそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の調査や取材を経た眼でもういちど対象をみつめ直してみようとする態度は、実にジャーナリストらしいなと思う。逆に言えば、これは著者が美術界の外にいる人だからこそ生み出せた本でもあるのだろう。
藤田には奇行やケレン味たっぷりの派手な言動が数多くあったという。それが伝聞のようなかたちで広がるにつれ、いらぬ反感を買ったり足を引っ張ろうとする人たちがたくさん出てきただろうことは、想像に難くない。
…と、さも見てきたような書き方をしているが、仮にもし私がその当時に生きていて、ご当人と親しい仲ならいざ知らず、新聞ネタやウワサ話などでしかその人物像を聞かなかったとしたら、やはり私もこの人を「よくわからないけど胡散臭いヤツ」としか見なかったと思う(よくわからないが故に胡散臭いと思う、と言う方が当たっているかも)。私には自分の中に「妙に目立っている」「にわかには理解できない」という理由だけで気分的に反感を抱いてしまうという、実に困った傾向があることを否定しない。「出る杭を叩きたがる」とでも言おうか。…何事も世間に目立たないよう穏便にすまそうとし、「横並びでみんな一緒」なのが好き…とまで言うと語弊があるかもしれないが、しかし当時の多くの日本人も、もしかするとそんな「気分」を共有していたのかもしれない。加えて、相手が「洋行帰り」だから妙な西洋コンプレックスや妬み・僻みも多々含まれていたかもしれない。——そのくせ映画スターのような“フィクショナルかつわかりやすいヒーロー/アイドル”は熱烈に待望し崇拝したりするんだけれどね。
ともあれ、本書に描かれるフジタ像は、最後まで日本および日本的なるものを愛し続けようとしていた。けれどもその愛が報われるときは、彼が生きている間にはついに訪れなかった。
1920年代のパリには、世界中からいろんな「異邦人」たちが成功を夢見て集まっていた。フジタももちろんその中のひとりだろう。私は本書を読みながら、同時代に同じパリで、華々しくスポットライトを浴びていたある女性歌手のことを考えていた。その歌手——ジョセフィン・ベーカー Joséphine Baker の大ヒット・ナンバー〈ふたつの愛 J' ai deux amours〉を、フジタが聴いていないはずはないのだが、彼はあの歌をどんな想いで聴いていたんだろうか。
本書には、画家藤田嗣治自身の言葉も多く引用されている。孫引きになるが、特に印象深い一節をここに引いておく。
<(前略)直感から生まれた線は的確にして無限に深い。線とは単に外郭を云うのではなく物体の核心から探求されるべきものである。美術家は物体を深く凝視し、的確の線を捉えなければならない>
<東洋人は何百年何千年の昔から、唯一つの線を繰り返し、繰り返し描いているうちに、いつか現象だけを見るようになってものの核心を見る目を忘れてしまった。日本画家は永久に古人の画境を理想とし、その伝統以外の美を求めようともしなければ、又脱却して新しい美新しい線を生もうともしない。所で僕たちは、そういう在来の習慣的の色彩や線に満足していていいものかと云えば大概の人は新しいものを求めている。深いもの、変わったもの、新鮮なものを求めるのは人間の自然な本能の要求であるからだ。而して吾等の義務でもある>『地を泳ぐ』より(pp.108〜109)
2006 02 24 [design conscious] | permalink Tweet
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comments
藤田嗣治と言えば、私は京大近くの日仏会館にあるレストランを思い出します。
たまたま京都に旅行に行ったときにふらりと寄ったお店だったんだけど
ここのお店にいたお客さんが声をかけてきて
(京都の人はきさくに声をかけてきますね)
壁にかけてある大きな絵をさして「フジタの作品なんですよ」と。
藤田嗣治の逸話は私も前からチラッと知っていたので
「本当かな~」と半信半疑で聞いてたんですが
どうやらこれだけは本物だったようです。
ただ、現在はこの絵も別な写真だか複製作品だかに
かけかえらえてるようですね。
というより、レストラン自体、まだあるのかしら・・・。
(と、ネタをふってみる 笑)
フジタ本人の芸術家らしい言動も、様々な誤解をうんだ理由のひとつでしょうけど
彼のまわりの人々たちの、彼の作品をめぐるゴタゴタ
(作品の所有権がだれにあるか、と言ったゴシップ的な話)も
「よく分からない人」にしてしまった要因かも知れませんね。
作品自体よりもこういった「ネタ」の方で注目されてしまうというのも
なんとも悲劇的ですが
とかくこういう「イッちゃった」感じ(汗)の芸術家には
ありがちな逸話ではあります・・・。
posted: しのぶ (2006/02/24 20:54:31)
追記:
気になって調べてみたところ、ありました!
関西日仏学館
http://www.ifjkansai.or.jp/institut_jp.html
フジタの作品(ノルマンディーの四季)は、
現在レストランではなくサロンに展示されているそうです。
サイトで見る限り、一般公開されてるのかちょっと良く分からないんですが・・・。
建物も2003年に大規模改修されてますね。
(私が行ったのは10年以上前でした・・・)
以前のレストランは名前もずばり「ル・フジタ」だったんですが
現在では「ル・カフェ」となって、写真で見る限り
ずいぶんと小綺麗になったようです。
(もっと薄暗い雰囲気だったような)
posted: しのぶ (2006/02/24 21:09:21)
コメントありがとうございます。
日仏会館、そういえば私もここ十数年行ってないですぅ。リンク先見ましたが、ずいぶんキレイになってますね。
>以前のレストランは名前もずばり「ル・フジタ」だったんですが
そっか、なんで「フジタ」なんだろうかと思ってたんですが、そのものずばりだったんですね。この作品も本展に出品されるのかな?
芸術家…は私生活の上では悲劇的な人生を送る例が多いですが、藤田嗣治の場合は破滅型ではなく、まわりに誤解され続けた…というのがなんとも。彼の心の中にあった理想としての「日本的なるもの」と、現実の「日本」とのギャップの大きさにはいろいろと考えさせられます。
posted: とんがりやま (2006/02/25 19:53:29)
一足先にフジタを見に行ってきました。京都の方は5月の末から開催ですね。
東京は平日でもかなり会場が混雑しています。
20年前にカタログの騒ぎがあったことを思い出しました。それが、遺族の著作権の問題と結びついているのでしょかね。
フジタの作品は6000点あるといわれています。はっきりとしたスタイルがあるから、真似はしやすいでしょうね。
贋作をかかれてこそ、本当の芸術家。
そのうちにもう少し展覧会の内容を詳しくレポートします。
posted: tade (2006/04/15 7:57:00)
はじめまして、コメントありがとうございます。
>東京は平日でもかなり会場が混雑しています。
このあと開かれる京都でも、最後の会場である広島でも、おそらく同様でしょうね。こればっかりは混雑は覚悟の上、でもできるだけ長い時間、藤田の絵を見ていたいです。
20年前のカタログ回収の騒ぎは、ご指摘のように著作権問題がからんでいたこともあったかもしれませんね。私はもうひとつ、小田急や大丸など「デパート」で開催したっていうことが、関係者の心証を悪くしたんじゃないかとも睨んでいるんですけど(^_^;)。
posted: とんがりやま (2006/04/16 20:54:10)
「ル・カフェ・フジタ」を検索して、こちらのサイトを知りました。
藤田ファンとしては、こんなにたくさん藤田に関することが掲載されていて、
うれしくなりました。近藤氏の本、とてもすばらしかったです。すでに、「藤田展」に4回も行ってしまいました。浸りに浸りまくりました。そして藤田が最後まで日本を愛していたことを痛感しました。
posted: Yuko (2006/05/03 10:15:16)
コメントありがとうございます。
4回はすごいですねえ。ひょっとして、会期中に展示品の入れ替えとかがあったんでしょうか。
「ル・カフェ・フジタ」は、上のコメントで教えていただいてからはまだ一度も行けてないんです。連休中にぜひ、と思っていたら、日仏会館もGWの間は閉館しているんだそうで。
そういえば京大内にもカフェができてるようですし、もし京都にお越しの際は、ぜひ周辺の散策も併せてお楽しみくださいね。
posted: とんがりやま (2006/05/04 17:50:01)