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最近読んだ本(2006年4月)

 

Books0604

 
 
Kandoukinshi「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと
 八柏龍紀著/ベスト新書102/KKベストセラーズ刊
 2006年1月初版/ISBN4-584-12102-8
 装幀:坂川事務所
 
 「感動をありがとう」「勇気をもらいました」——そんな言い方に強い違和感を覚える著者が、なぜそういうコトバが広く当たり前のように流通するに至ったかを細かく検証した本。なにを隠そう、私もそのテの言い回しは大嫌いなので、著者の主張にも大まかには異論はないのだが、若干気になった点がふたつほど残った。
 ひとつは、“流行の作られ方”が、どうも一方通行すぎるように描写されている点。たとえば、次のようなくだりだ。
 商業資本にとっては、反体制であろうとアンチヒーローであろうと、意識的であろうと無自覚であろうと、すべては消費する「階層」さえ存在するなら、なにごとも「ショーバイ(商売)」として成り立つのである。(pp.51-52)

 「ショーバイ」する商業資本と、それを消費する「階層」の二項が、なにか川上から川下へと水の流れのように一方向に動いているかのように読めるのだが、しかし現実は必ずしもそんな単純ではあるまい。
 ここで言うところの“商業資本”側はおそらく、消費する階層がどのくらい存在するのかマーケティング調査に日夜余念のないところだろうし、その意味では“供給側”の言い分として「そこに消費者がいるから」それに向けた商品を生産しているに過ぎない、という理屈も成り立つ。しかし、それとて「商業資本」と「消費階層」の二者を別物として捉えているかぎり、上の主張とたいして違いはない。私は、両者は本来そんなにすっぱり切り分けられるものではないと思うのだ。互いに共犯関係にある、と言うか、端的に「どっちもどっち」じゃないのと思えてならないのである。
 要するに、社会人としてなんらかの生産的活動をしている“私”と、休日に映画を観たりショッピングを楽しむ生活者としての“私”は、ともに同じ肉体を持ち同じ人生の悩みを抱える、同じ人物の別の側面でしかないと思うのだ。暴論気味に言えば、“犯人”はどちらか一方のみにあるのではなく、また二者の共同正犯でもない。同一人物による自作自演の積み重ねが、いまという時代をつくってきたと考える方が、より現実に近くないだろうか。
 とすれば、もしたとえば「感動をありがとう」というコトバに嫌悪感を覚える“私”がいるとすれば、それはすなわち鏡に映る自分の容姿を眺めてカッコワルイと思ってる“私”に他ならない。そういう“自覚症状”を棚に上げたまま、自分以外の誰かを断罪してしまう考え方には、どうもなんらかの危険が潜んでいる気がしてならないのである。
 気になった点をもうひとつ。以前読んだ『プチナショナリズム症候群』(香山リカ著/中公新書ラクレ/2002年)もそうだったが、この本も最後に故ナンシー関の言説を引用して締めくくっている。私はナンシー関の大ファンだったから、その言説がいまなお引用されるのは嬉しいのだが、しかし同時に、いまだに彼女が乗り越えられていないのは寂しくも思う。彼女はそれだけ頭抜けた思想家(というか、正確には、類い希なる観察者)だったんだということの証明でもあるんだろうけれども、てめーらいつまでもナンシー関ひとりに寄りかかってるんじゃねーよ、という思いもなくはない。
 
 
Himitukessha秘密結社の世界史
 海野弘著/平凡社新書315/2006年3月初版
 ISBN4-582-85315-3
 装幀:菊地信義
 
 上の“商業資本”もその一種だろうが、われわれは常に見えない“何か”に操られている、という感覚は、たとえば「陰謀史観」などというコトバに代表される世界観、と言い換えてもいいかもしれない。どれほど情報が行き渡り、地球の反対側の事件を瞬時に知ることができるようになった現代でも、いや、そういう時代だからこそ、かえって“世界は一握りの連中の陰謀によって回っている”という疑念がいや増すのかもしれない。
私たちは世界中を見ることができるのだが、しかし限りなく世界の一部しか見られなくなり、見える部分が大きくなっているようで、実はその何倍もの見えない部分がその背後に広がりつつあるのだ。(p.17)

 著者によると、秘密結社が多くあらわれるのは<古代王朝、ルネサンス、十八世紀、十九世紀末といった過渡期、変革期(p.14)>だという。現代もテロリストやカルト宗教などさまざまな“謎めいた組織”が、時に平凡な市民生活を脅かしつつ、存在しているが、21世紀初頭もまた、後世の歴史家は<変革期>と見なすに違いあるまい。
 本書は過去のさまざまな秘密結社を紹介していくものの、その“秘密”を残らず白日の下に晒すところまではいっていない。読んでいて、結局なにがしたかったんだこいつら、と思うような“結社”も少なくない。その存在は確認できても、肝心の活動内容は謎のままとして残されているからこそ“秘密結社”なのだ、といえばそれまでなのかもしれない。人が多かれ少なかれ“墓場まで持って行く”類の秘密を、自らの胸の内に抱え込む生物である限り、秘密結社は新しく生まれこそすれ、決してなくならないものなんだろう。
 
 
Hitowanaze人はなぜ歌い踊るのか
 星野紘著/勉誠出版/2002年11月刊
 ISBN4-585-05069-8
 装丁者名記載なし
 
 …というタイトルの本だが、この根源的ともいうべき(したがって完全に言い尽くした解答など出るはずもない)問題について、真正面から解明しようとした内容ではない。
 著者は長く文化庁で芸能の調査官をしていた方で、本書の守備範囲も日本やアジア各地の伝統的な芸能に限られている。あまり一般的ではないといってもいいジャンルでもあり、したがって決してわかりやすい文章ではない。なにせ論じられている芸能がどれも、ふだん親しく馴染むどころかはじめて知るものがほとんどだからだ。
 だからといって退屈かと言えばそうではなく、本書に出てくる芸能には興味深いものも少なくない。ひとつだけ挙げれば、日本の盆踊りは、今では広場など戸外で踊られるものと相場が決まっているが、かつて室内で踊られていたものもあるという。しかも<板張りの床上をわざわざ下駄履きで、ガタガタ音を響きかせて強く踏(p.26)>んでいたそうで、おお、日本にもタップダンスがあったんだ、と、妙な興奮を覚えた(もちろん日本のそれはいわゆるタップとは全くの別ものだろうけど)。著者は中国雲南やチベットにも同種のダンスがあることを報告しているのだが、そのくだりを読みながら、そういえば以前このブログでレビューしたことがある『舞 長い袖のチベット舞踊』というDVDにも、ほとんどクロッグダンスじゃん、てなダンスがあったことを思い出した。もっともあれはグループダンスではなくソロの踊りだったんだけれども。
 ともあれ、室内では履き物を脱ぐ畳文化の日本にも、木の床を強く打ち鳴らす“打撃系ダンス”が存在していたってことがわかっただけでも、私にとっては有意義だった。どんな踊りなんだろう。いつか見てみたいなあ。
 
 
 (以下、続きは明日。)
 
  

2006 05 01 [booklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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