« 本を売る | 最新記事 | サロン芸術 in Japan(追記) »
[book]:モンガイカンの美術館

●モンガイカンの美術館
南伸坊著/朝日文庫み7-2/1997年5月初版(オリジナルは1983年/情報センター出版局)
ISBN4-02-261189-8
カバー装丁:南伸坊
本棚の整理をやっていると「おお、そういやこんな本を持ってたんだっけ」というのがいっぱい出てくる。本書もそのひとつで、懐かしくなってつい読みふけってしまった。こういうことやってるからいつまでたっても片づかないんである。困ったもんだ。
本書は一編を除いて美術専門誌『みづゑ』(美術出版社)に連載されていたもので、いちばん古いものは1978年6月号というからけっこう年代物ではある。しかも文体が、80年代に一世を風靡したかの「昭和軽薄体」なので、今となっては相当読みにくい。たとえばこんな調子である。
オルデンバーグの冗談は、愛嬌があって、いまのところナウいといっていい。いったいに、冗談とキチガイはナウが長持ちしそうだが、これも戦争などが始まればナウくなくなるのかもしれない。そういえば、この展覧会はゲンバクやコーガイに勝つ展覧会のはずだったが、実際のところはどうなんだろ? と、またもや思索はフリダシに戻ってしまったのだった。(「ゲンバクに効く芸術」p.264)
あるいは、こんな調子である。
思うに、こういう若い人々というのは、かなりのカッコマンなのではなかろーか、と私は決めてしまう。カッコマンであるから、自分の頭で考えたことなど、とるに足らないと「わかってしまう」のだ。
ムズカシイことはセンモンカに任せればヨイ、ヨキニハカラエと殿さまキブンなのである。どうせハチマキして考えたってセンモンカのようには答えが出せない、と投げてしまうのだ。
だから必然的に面白くない。第一、答えが出てしまうようなものは面白くない、ということがわかっていない。こんなコンポン的な面白がり方を知らないのに「大体のことがわかってしまって、面白くない」ナドとサカシラをしているのである。(「エッシャーなんて不思議じゃない」p.358)
ナウいだとかカッコマンといった流行語はもとより、やたら漢字をカタカナにしてみたり、音引きを使ってみたりと、なんともいかにもな文章で、読んでるこちらが少々気恥ずかしくなってくる。とはいえ、私なんぞはこの時代の文体にどっぷり浸っていたヒトなので、こーゆー書き方だったら今でもチューチョすることなくスラスラと出てきてしまうんでR。…あぁ恥ずかしい。
とはいえ、文体が軽薄体だからといって内容までペラペラかというとさにあらず、この本はかなり真面目に「絵の見方」を語っていると思う。
上の引用文でも出てくるが、「センモンカ」の「ムズカシイ」話はそれとして、その前にまず自分で感じろ、考えろ、と何度も主張しているのだ。著者の場合は「面白主義」なので、自分が面白いか面白くないか、その一点に徹底してこだわっている。そしてなぜ面白いと感じたのか、あるいは面白くなかったかをじっくり考える。
およそ感想文なんてものは誰がどう書こうが、結局のところここに集約されるはずだ。「面白い」の部分が「泣いた」でも「感動した」でもいいんだが、なんらかの「心を動かされた」こと、そしてその理由はどうしてだろうと考えること、このふたつがなければならない。
いわゆる「文章術」からすれば基本中の基本じゃないの、と言われるかもしれないが、いやあ、それがなかなか、その基本をきちんと守って書くのって意外に難しい…と、自分のブログを振り返って、そう思う。単に「よかったー」とか「これ好き〜」だけならすぐ書けるし、あるいは「センモンカ」とかよそのブログでもホメてたからきっと良いものなんだろな、とか思いこむのは簡単なんだけれども。
自分のことで言えば、悪評がなかなか書けない。いや、オマエ悪口いっぱい書いてんじゃん、とか言われそうだが、ココが○○だからダメだ嫌いだ良くないんだ、と言い切るのは本当に難しいと思う。言い切るには言い切るだけの、確固たる理由が自分の中になければならず、そういう「確固たる私」っていうのがない限り、書く文章はどうしたってあやふやでどこか逃げ腰なものにしかならないからだ。
今回この分厚い文庫本を再読して改めて気づいたんだけど、著者は結構辛辣である。各方面に向かって怒ってもいる。たとえば上のふたつめの引用文の「若い人々」に対する意見なんかもそのひとつだ。カタカナ多用の軽薄体文体が炸裂しているのは、きっとナマの怒りをオブラートでくるみたかったんではないだろうか。悪評を書くには芸が要るんだなあと思う。
文庫本あとがきによると、この本は著者のエッセイストとしてのうんと初期の頃のものではあるけれども、愛着のある本だという。あとがきは1997年に書かれているが、<もう五十歳になるっていうのに、私の考えはほとんど昔と変わっていない。>とある(p.391)。その通り、文体こそアレだが内容に関してはほとんど古びていないと思うし、あ、そうか、そういう見方があるんだなと感心させられることがしばしばだった。
美術界じたいが、それほど劇的に変化していない、というのもあるかもしれない。百貨店や美術館で一般的な人気を集める展覧会の作家の顔ぶれもそれほど大きく変わっていないこともあるだろう。時事的な話題をひとつはさめば、いま、日本の洋画家がイタリアの作家の丸パクリにちかい盗用を続けてきたらしいというのでスキャンダルになっているけど、作家側もアレだけどそれを見逃してきた日本の「美術愛好家」だってアレだよね的な、なんだかどうにもグダグダな状況そのものも、この本が書かれた1980年代前後からちっとも進歩していないのかもしれない。
(前略)見るものについてくる夾雑物を——ネダンだのヒョーバンだのガクブチだのを——排除できる、そういう肉眼を持つしかないのだナと思ったりもしたのである。(「不思議のメガネ」p.192)
だから、この日々の精進ね。人のことはいえないけど「日々の精進」ですよ……。(「芸術はなんでもないものである」p.112)
レビュー系記事の多いブログの書き手としては、こういう言葉には素直に頭を垂れるしかないのであります。
2006 05 31 [booklearning] | permalink
Tweet
「booklearning」カテゴリの記事
- 中川学さんのトークイベント(2018.07.16)
- 《モダン・エイジの芸術史》参考文献(2009.08.09)
- ある日の本棚・2015(2015.11.28)
- 1913(2015.02.22)
- [Book]ロトチェンコとソヴィエト文化の建設(2015.01.12)
comments
「日々の精進」を体に覚えさせるのがもータイヘン、ですね。とにかく、毎日考えて、書いて、というか、ぼくの場合書かないと考えられないので、毎日書こうとするんですが……。
どこが悪いかはっきりわからんが、でも悪い、あるいは良くない、ということも多々あって、それはそれでそう書かなきゃならないとも思います。ただ、それを自分でも納得できるように書けるかというとこれがまた……。
それと、書くにはやはりもっと読まなくてはいかんです、はい。
posted: おおしま (2006/05/31 8:21:13)
コメントありがとうございます。
小学生の頃に読んだきりなので細部があやふやですが、ジョージ秋山さんの座右の銘(だったか師匠から教わった言葉だったか)に
たくさん考え、
たくさん話し、
ほんの少し書け。
というのがありました(二行目は間違ってる気も)。な〜るほ〜どな〜、と子供ゴコロに感心した記憶があります。
結論も主張もないアサハカな思考をブログにダラダラと書き連ねてますが、ときたまこのフレーズを思い出してこそこそと隠れたくなってしまいます(^_^;)
「日々の精進」、そうですね、タイヘンだからこそ「精進」なんでしょうねえ。
posted: とんがりやま (2006/06/01 9:24:06)
書く喜びってわからないなーー。という壁にぶちあたっていた
矢先でしたので、何か少し薄日がさしたような感じです。
よく考え、よく読む。これ大事ですよね。
よく話し(^^;)ばかりじゃだめですね。
posted: まるみ (2006/06/02 1:52:01)
コメントありがとうございます。
いやいや、おしゃべりも大事だと思います。話しているうちに自分の考えがスッキリしてくることも多々ありますし。
「書くこと」とは少し離れるかもしれないですが、ビジネス上でも、会話の弾む相手だと商談がスムーズにいくことが多いですよね。
posted: とんがりやま (2006/06/02 12:58:46)