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いらイラいらイラ

●大絵巻展
2006年4月22日(土)〜6月4日(日)
京都国立博物館
【図録】
京都国立博物館編集/読売新聞社・NHK・NHKきんきメディアプラン発行
デザイン:株式会社エヌ・シー・ピー
さて、『大絵巻展』である。いちどGWの最中に会場前まで行ったら、もんのすごい行列だったので、気の短い私としては「ンなもん待ってられっかコノヤロ」とばかりに猛烈な勢いでパスした経緯がある。
ま、国宝・重文クラスが一同に会する展覧会だ。人気があるのは織り込み済み。とはいえこちらもそれほどヒマではない。平日観覧はまず不可能なので、どうにか休日のなかでも人の少なそうな日を選ぶしかあるまい。
台風崩れの低気圧が日本列島を東上するとのことで、前日の天気予報では朝からかなり雨が降るとされていた今日がひとつのチャンスかもしれない。大雨だったら少しは客の出足も鈍るだろう。よし、とばかりに、朝一番に博物館に向かった。
ところがところが。結論から言うと、雨が降ろうが槍が飛んでこようがまったく無関係でありました。開場時間前からすでに、ずらっと傘の行列ができている。うひゃあキミたちなんなの一体、と心の中で叫びつつ、またもメゲそうになった気持ちを奮い立たせてチケットを買う。なんとか30分待ちくらいで会場に潜り込むことができた。
しかし、会場内も当然ながら大混雑で、有名どころの作品はそれを観るためだけにさらに並ばなくてはならない。「餓鬼草紙」「病草紙」「鳥獣人物戯画・乙巻」で40分くらい、「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画・甲巻」に至っては1時間以上待ったかな。「信貴山縁起」もかなり待った。なんだかんだで博物館でのおよそ3時間半ほどの滞在時間中、たぶん合計3時間ちかくはただひたすら並んでいただけだと思う。最初にも書いたが、ワタシは気が短いのである。イライライライラ…。
まあしかし、しょうがない。なにしろ、絵巻物はディテールをじっくり眺めるものでもあるし、ふつうの絵画作品と比べると観客の“滞在時間”が長くなるのは当たり前なのだ。そうでなくても、国宝を何点も含む有名どころが一挙に集まる展覧会である。大混雑もやむなし、なのである。

それを思えば、私ってばなんて成長したんだろう。今回はなにひとつパスすることなく、全部並んでやったぞ。ふは。ふははははは(←ヤケクソ)。
人混みに押されながらだと、ある箇所が気に入ったからといっていつまでも同じ所に立ち停まるわけにもいかず、だから1時間並んで見るのは数分、ということになってしまうわけで、結局イライラはつのるばかりでもある。もっとも、超有名どころは図録や画集などでさんざん見慣れている。画集の方がディテールをアップで掲載してくれる分、かえって見やすいってこともある。なんなら同じ作品を日がな一日眺め続けることだって可能なわけで、だから今回も図録をアテにして、会場はさっさと切り上げるという選択もアリかもしれなかった。
そうしなかった理由はいくつかあって、ひとつはやはり印刷と実物ではぜんたいの印象がまるで異なるからだ。たとえガラス越しであっても。
もうひとつは、詞書(ことばがき)である。絵のパートと文章のパートが完全に分離している絵巻の場合、高価な専門書ならともかく、たかだか展覧会図録のレベルだと詞書パートが掲載されない場合が多い。予想通り、今回の図録もそうだった。
会場でも、絵の部分を熱心に観る人は多いが、詞書はみなさんほとんど素通りである。だって読めないんだもん。それがどういう内容の作品で展示しているシーンがどういう状況を描いたものなのかは、作品脇の解説パネルに短く説明されているので、詞書がわからなくても全然大丈夫なんである。
しかし、絵巻は、やはり絵とコトバがふたつでワンセットなんだなあということを、私は今回強く感じた。その作品のすべて、頭から尻尾までを完全に展示しているわけでもないので、会場で見られるのも所詮「一部分」でしかないのだけれども、それでもこのジャンルの作品は右端から順番に、手を抜かずに眺めてゆくに限るのである。
観客の少ない詞書パートで立ち止まって、書かれている“文字らしきもの”をじっと睨みつける。と、あら不思議。文意が自然とわかってきて…となればいいのだが、もちろんそんな都合の良い話はない。漢字はまだしも、かな文字は完全にお手上げである。これも日本語のはずなのにぃ。ああ、イライラ。
鎌倉時代の、漢字かな交じりの詞書が、かろうじてとっつきやすそうかも、とは思った。平安時代は宇宙人の暗号だ。室町時代もよくわからん。江戸時代のも読めないなあ。…って全部じゃん。つーか、時代区分というよりも、作品ごとにわかりそうだったり、さっぱりわからなかったりする。どれも上手な字だよね、ということぐらいしか感じ取れない。
ちょうどアレだ、フランス語がまったくできなくても、シャンソンを聴いて涙がでることもあるし、英語がよくわからなくともバラッドに聴き惚れてしまうこともある。歌詞カードを見て、一つ一つの単語はなんとなくわかっても、全体として文意が理解できないことも多い。それでもその楽曲に心打たれることはある…それと同じこと、なのかもしれない。
部分的な絵をひとつだけ切り取っても、その絵巻の面白さは、たぶん誰にでもわかる。特に鎌倉期の作品に多いと思うのだが、たくさん描き込まれた人々の、なんと豊かで人間味に溢れていることか。喜怒哀楽を素直にあらわした表情や仕草のいちいちは、いつまで眺めていてもまったく飽きないし、絵巻ぜんたいのストーリィを知らなくとも、そういったディテールだけで鑑賞に値することは間違いない。
しかし、外国の音楽を好んで聴く人がその国の言葉も知りたくなるのと同様、絵巻や草紙を眺めていると、やはり詞書に何が書かれているのかが気になってしまうのはごく自然のことだと思う。
残念ながら私には、自分の生まれ育った国の、たかだかほんの数百年前の書き文字を読める力がない。基本的な知識も教養もない。たしかに、言葉がわからなくても平気で「いい」だの「悪い」だの「好き」だの「嫌い」だの勝手なことを言うことは可能だ。ではあるんだけど、しかしその作品のぜんたいをきちんと理解していない事実は、残念ながら動かしようがない。
外国語がわからん、というのはまだ言い訳のしようもあるだろう。しかし、母語がさっぱり理解できないっつーのは、まことにクヤシイことではありますまいか。
あまりの混雑ぶりよりも、何時間も並ばされたことよりも、このことがいちばんイライラするんであります。ちくしょーっ。
2006 05 20 [design conscious] | permalink
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comments
まったくおっしゃる通りで、あたしなんか、書き文字は愚か、印刷してある明治時代の本が読めません。漢字が読めん。読めても意味がわからん。そんじょそこらの「漢和辞典」じゃ、出てない。「国語辞典」なんぞではぜんぜん間に合わん。
でも、絵と詞でワンセットは確かにその通りですね。ついでに言えば、おそらく当時は絵を見ながら、誰かが詞を読みあげていたのではないかと思いますが、その際、「伴奏」も付いたのではないか。と妄想します。六本木ヒルズに住むカネがあったらかわりにそういう体験につぎこんでみたい。
posted: おおしま (2006/05/21 10:20:18)
コメントありがとうございます。
ああ、言われてみれば明治はおろか、昭和初期でも読めない漢字がばんばん出てきますよね。「たかだかほんの数百年前」どころか、わずか一世紀に満たない昔でも、まるで歯が立たない文章はいっぱいありますねぇ…。うーむ。
今回展示されていた絵巻では、今のマンガのようにセリフが登場人物のすぐ脇に書かれているものもあって、興味深かったです。きっと、それぞれのキャラになりきって読まれていたのかもしれません。
一人かせいぜい2、3人程度で見るようなパーソナルなものから、寺院の縁起絵巻みたいにパブリシティっぽいものまで、ひとくちに「絵巻」っていっても、メディアとして考えるとけっこう多種多様だったんだなあと思いましたです。
posted: とんがりやま (2006/05/21 22:13:46)
こんにちわ。
おれも学校の授業でそういった絵巻物を美術館で見ました。
字は読めないけれど、
解説パネルにちゃんと活字で同じ文面をのせていたので、
照らし合わせることができました。
句読点なし、段落なし、
改行は文節や文意に全く関係なくやっています。
でも文字の形が形だけですごく美しいというかかっこよかったですね。
posted: カトレア (2006/05/23 2:01:20)
コメントありがとうございます。
いくつかの作品では、解説パネルに対訳(?)を書いているものもあったんですが、どの部分がどの字に対応するのかさっぱりでした。アレはダ・ヴィンチの暗号よか難しいです(笑)
100%はまぁ無理にしても、せめておおまかな意味くらいは把握できるようになれたらカッコイイだろーなー、と思う今日この頃であります。
posted: とんがりやま (2006/05/23 20:23:28)