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最近読んだ本(承前)
●迷宮の美術 真贋のゆくえ
瀬木慎一著/芸術新聞社/1989年12月刊
ISBN4-87586-034-X
ブックデザイン:堀内肇
東西の美術作品の贋作事件が主題。巻末の「贋作事件年表」もとても興味深いのだが、私は「にせもの考現学」という比較的長めの文章をいちばん面白く読んだ。
どれほど知識と情報が行きわたっても、偽物作りに生きる余地があるのは、人々の眼がたるんで来た証拠と言えるだろう。眼が甘くなったどころか、絵そのものを一向に見ず、名前だけを見ている投資家が独占する美術界である。(中略)
私が強く感じるのは、最近の偽物の質がひどく低下したことである。妙ないい方だが、往年の名手のような存在は今や見かけない。(中略)それもそうだろう、画家自身も対象に自分の眼を以て迫る努力を怠り、写真に依存する描法をあまりにも濫用しすぎてはいないか。
絵画が「図画」に堕しつつある現状では、偽物作りもそれほど苦心する必要がなくなっている。(p.186)
絵を買う人々が、作品ではなく作家名しか見ていない状況では、贋作ですらレベルが落ちている、という話なのだが、<眼がたるんでいる>のは別に絵画を購入する層だけではない。常々思うんだが、展覧会はいちどあの小うるさい作品脇の解説パネルを全部とっぱらってしまったらどうか。作家名も作品タイトルも隠して、ごくシンプルに作品と鑑賞者が一対一で向きあえるような、そんな「不親切」な美術展を企画する人はいないんだろうか。作品の鑑賞の仕方を手取り足取り丁寧に教える展覧会ばかりでは、頭でっかちにこそなりすれ、肝心の眼はますますたるんでいく一方であると思うのだが。

渡辺一枝著/文藝春秋/2006年3月刊
ISBN4-16-366710-5
装丁:斎藤深雪
渡辺一枝さんの本を手に取るのは久しぶりかな。わたくし初期の『自転車いっぱい 花かごにして』(情報センター/1986年)以来の読者でありますが、近年のチベット関係のは読んでいないものが多い。これを機に買いそろえようかな。
もっとも、著者のチベット紀行では『チベットを馬で行く』(文藝春秋/1996年)一冊で完璧にノックアウトされたクチで、あれを何度も読み返すだけで充分じゃないかという気もする。これは、表題通りチベット国内を自動車ではなく馬に乗って駆け抜けていく旅行記で、なんとも爽快、かつ読後自分の背筋がピンと伸びるような感じがして、とても気持ちがいいのである。今回の『〜お百度参り』は、同じ版元から出ているせいもあって、その続編的な位置付けになるんだろうか。かつてのような見るもの触れるもの全てに新鮮な感動を覚えることはもうないが、しかしその分、より深い愛情と慈しみを持ってチベットという土地を歩いている。そんな確かな手触りが読んでいるこちらにもとても伝わってくるし、読後もじわじわと漢方薬のように効いてくる感じがする。
私自身はおそらく生涯足を踏み入れることのない国だろうけど(チンギス・ハーンよろしくユーラシア大陸を東の端からハンガリーあたりまで駆け抜けてみたい、という夢がないこともないけど)、そんな私にもチベットという国がぐっと身近に感じられるのは、ひとえに著者のおかげである。

夏目房之介著/実業之日本社/2006年2月初版
ISBN4-408-53479-X
ブックデザイン:日下潤一+小島祐子+小倉佐知子
カバー挿画:矢吹申彦
たいへん面白かった。といっても、私は夏目漱石の本を全くと言っていいほど読んでいないので、著者の批評の逐一を充分理解したとは言い難い。とりあえずは良質のブックガイドとして、こりゃあぜひ原典を読まねば、と思えるものが二、三ありました…と書いておこう。
あらためて説明するまでもなく、著者はマンガ評論のジャンルで大きな仕事をしてきている人だが、作品内にすっかり埋没するでもなく、かといってまったく突き放してしまうのでもない、ある一定の距離の保ち方をもってマンガ作品に向きあってきた人じゃないかと思っている。中心には常にマンガを読む“私”が存在していて、そこからの距離を丁寧に測定していく、という感じ。
こういう方法論は時に、いわゆる“自分語り”が過剰になったりもするので、正直ちょっと鬱陶しく感じる場合もあるんだが(たとえば『青春マンガ列伝』マガジンハウス/1997年、のち『あの頃マンガは思春期だった』に改題/ちくま文庫/2000年)、それが自身の祖父とその作品を語る、という今回のような趣旨の時にはぴたりとはまっている。これは前作『漱石の孫』(実業之日本社/2003年)を読んだ時にも強く感じたことだった。この人は、ひょっとして“このこと”を書くためにこれまで生きてきたんじゃないか、とさえ思ったほどだった(著者には失礼な言い方かもしれないが)。
そのあたり、ひとつだけ具体的な例を挙げると、たとえば漱石の書簡集について、こんなくだりがある。
そもそも漱石は手紙の達人で、僕は以前から自分で手紙を書くときの参考にしてきた。「以前から」が一体いつ頃からだったかは、さだかではない。が、おそらく三十代から四十代の頃だと思う。(中略)
参考だから、適当にめくって、少し丁寧に書くべき相手や状況の場合、くつろいだ感じのほうがいい関係の場合など、さがしあてて読んでいた。(pp.294-295)
“文豪”の書簡集を自分の手紙の書き方の参考書に使うというのは、私などにはちょっと思いつかない。一般人が谷崎あたりの『文章読本』を勉強しました、というのとは全く違う、もっと生活に密着したあり方なんである。こういう“つきあい方”ができるのはやはり親族だからこそ、ではないだろうか。
本書は“文豪の孫であるところの私”と、長年のマンガ研究によって鍛えられ精度を高めてきた“テクストを読み解く私”の両者が、絶妙のバランスで併走している。ときに近づいたりあるいは離れてみたりする、距離の取り方がすごくいい。そしてなにより、その両者がともに対象(漱石)に対して誠実な態度をとり続けているのが、読んでいてまことに心地いい。たぶんこれから何度も読み返すだろう一冊。

土屋賢二著/岩波書店/2005年12月初版
ISBN4-00-001399-8
装丁:飯村一男
一見イワナミらしからぬブックデザインで、ちょっとびっくりした。いつもの文春のエッセイ集よりもさらにカジュアルではないか。とはいえ、中身はたいへんまともである。
本書は著者が大学でおこなっている講義をもとにしているとのことで、それも<主として哲学を知らない一、二年生の学生を対象にしていて、学部や学科に関係なく参加できる講義である。(p.ix)>ということだ。「哲学概論」とかなんとか、そういう講座名なんだろうか。いずれにせよ、一般教養として「哲学ってどんな学問?」という疑問に答える講義ということになるんだろう。哲学のテの字も知らない私にはぴったりのテーマである。
面白いのは、「いわゆる哲学」の代表的な考え方をいくつも挙げて、それに対して著者がことごとく異論を唱えていくあたりである。プラトンはかく主張した、でもそれは全部間違っているとぼくは思います、デカルトはこんなことを言っている、でもぼくはそれって間違いだと思うんです。…という具合に、ひとつひとつ、「なぜ間違っていると思うのか」を噛んで含めるようにゆっくり説明していく。おそらく、講義をマジメに聴講している学生ほど、回を追うにつれアタマの中がハテナマークでいっぱいになることだろうと想像する。なぜなら、反論に次ぐ反論、否定に次ぐ否定の積み重ねで、講義の最後にはほとんど「哲学そのもの」を否定する一歩手前のような場所まで来ちゃったと思えてしまうからだ。「哲学とは何を研究する学問か」を知りたくて受けた講義のはずなのに、「あれも違う、これも間違っている」と次から次へとダメ出しされて、「ええ? じゃあ結局、哲学って何なのよ、そんな学問になんの意味があるっていうのさ」という根本的な疑問が、最後にぽつんと残されるのだ。
全11回分の講義だが、このエスカレートの仕方はとても面白い。良くできた推理小説を読んでいるみたいだ、というと語弊があるかもだが、それくらい面白い。巻措く能わず、私は最後の一ページまで一気に読まされてしまった。
著者の“結論”はここには書かないし、またその必要もないと思う。それこそ推理小説のネタバレをしてはいけないのと同じだ。本を閉じた私は、その晩布団に潜り込んだあとも、ずっと本書の提示した問題についてぼうっと考え続けていた。著者が提示した問題のひとつに、たまたま私が子供のころからずっと考え続けてきた(それなりに切実な)問題が含まれていた、という個人的な事情もある。ゆえに私は、今後も折に触れて本書の内容についてつらつらと考えることだろう。
さて、世間はどうやら大型連休でありますな。私も書を捨てて、ちょっくら街に出てみましょうかね。
2006 05 02 [booklearning] | permalink
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comments
私が仏と仰ぐツチヤ教授を取り上げてくれて、どうもありがと。
うかつにも実はまだ読んでない。でも、またブレイクしてくれたみたいだな。教授の「人生論」や「恋愛論」は、私にとって最もリアリティの高い哲学なのだが、どうやらそれと同様のアプローチのようだ。“よくできた推理小説”に見立ててくださるところは、なるほど!ドキリとしたぞ。うわっ、楽しみだ、早速今日買ってみよう。『孫が読む漱石』も読んでみるわ。ありがとっ!
ところで、とんがりやまさんが書を捨て街に出る場合、無意識に向かわれてしまう行き先はやはり『満点であります』的某店なのだろうか……。ご無事をお祈りしたい。
posted: 社長 (2006/05/02 13:41:33)
コメントありがとうございます。
>『満点であります』的某店
今日勇んで出かけていったら、連休中はお休みのようでした(笑)。じゃあしょうがねえってんで、かわりにネタになりそうなものを必死に探してしまうあたり「三ツ子の魂百まで踊り忘れず」といった感じでしょーか(違
posted: とんがりやま (2006/05/04 17:40:39)