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サロン芸術 in Japan(追記)

 
 ここ数日、すっかりワイドショーの人気ネタのひとつになった観がある、和田義彦氏の盗作疑惑問題。テレビをろくに見ることのできない私でもネットを少しうろうろすればおおよその流れが掴めるっていうのは、いやぁいい時代になったんだかどうなんだか。
 まず申告しときますが、私はこの騒動が起きるまで和田氏はもちろん、もう一方の当事者であるアルベルト・スーギ氏の名前も知らなかったです。当然作品も見たことがない。和田さんが国画会の会員だというので、手元に国画会関係の図録なり資料なりないかなと思って探してみたんだけど、残念ながら見あたらず。そういや国展や院展や二科展など団体系の公募展ってもう十年以上も見に行ってないからなあ。美術の展覧会は好きなのでけっこうこまめに出かけてる方ではありますが、団体展は自分の中ではすっかり「ないもの」「終わったもの」として扱っておりました。
 
 というわけで、両氏ともどもその作品を実際に観たことがなく、わずかなテレビニュースやネットにアップされた画像しか知らないので、絵画作品としてどーなのよ、という類の感想はパス。おすぎサンは「東京でワシの個展を開け」と主張しているそうですが、機会があるならぜひ見たい(もちろん和田サンの絵も併設してね)。スキャンダルであれ何であれ話題性はあるんだし、誰かどこかで企画しないもんですかね。
 
 で、コレを書いている6月1日現在、和田氏の一方的な「盗作」ということでおおむね世間的なコンセンサスができあがっているようですが、当の本人は真っ向否定している模様。スーギ氏との主張とも全くかみ合っておらず、よくわからないけど何かウラでもあるんじゃないの、と勘ぐりたくなるような泥仕合的な事態に発展しているようです。
 You Tubeにはこの件のニュース映像がたくさんアップされてますが(ネットのパワーってホント凄いですなぁ…とこれはオッサン的感想)、そのうちのひとつ、5月29日にテレビ朝日系「報道ステーション」が放映したインターホン越しのインタビュー映像で、和田氏は「専門家が見たらですね、明らかに違いますし」と主張しています。ワレワレの「一目瞭然、そっくりやないかいっ!」というツッコミを、和田サンは「シロートにゃわかんねーんだよ」とツッコミ返している、と。いや、ツッコミなのか高度なボケなのか、そのへんよくわかんないんですけどね。実は「なんでやねんっ」と再度ツッコまれるのを待ってるだけなんじゃないかとも思ったり(笑)。
 
 ともあれ、ああ、このヒトは絵画をシロートさんのものにはしたくないのね、と、そのインタビューを見て思いました。オレはあんたらじゃなく少数の“違いのわかる”層を相手にしてるんだぞ、と宣言しているんだなと。
 そのときふと「サロン芸術」——という言葉が浮かびました。ひょっとしてこのヒトは19世紀末あたりの「上流階級社交界」向けのお芸術を、21世紀の日本でやってるのかもしれない。そう思って、なんだかヘンに感心してしまった次第であります。
 
 国画会に限らず、各種の公募団体の現状とか実態など全く知らないんですが、もしかすると、どこもサロン化してるんでしょうかしらん。先にも書いたように、自分の中ではこの種の美術団体はその歴史的役割を終えたものだったんですが、しかし現実にはちゃんと存続し活動しているわけで、つまりは「それを必要としている人々」が大勢いる、ということに他ならないってことですよね。それも単なる趣味の範囲内ではなく、メシのタネにしている人(事務職員さんとか)も少なからずいるでしょうし。けれどもその活動が広く社会的関心を呼んだことは、全くとは言いませんがほとんどないんじゃないかと思えるワケで。
 
 別になんでもかんでもワイドショー扱いされる必要などないんですが、その作品や行動が社会的事件として報じられたり広く芸術的意味を論じられる現存作家って、考えてみればほんの一握りですわな。その量というか割合は昔も今も変わらないとも思うので、ゲージュツは死んだと言うつもりは毛頭ないですが、現実にはその何十倍、あるいは百倍以上の「作家」がいる(かもしれない)わけで、そういう人々の活動なり芸術的成果なりは、シロートが普通に生活している分にはなんだかよくわかんないまま、ではあります。
 そんな「よくわかんない」芸術家が、みんながみんな「サロン化」しているわけではもちろんないでしょう。しかし、今回の件で、ただでさえ難解と思われがちなゲージュツをますます縁遠くさせてる一群がにいるんだなということは、うっすらと感じられたのでした。まあ、万人ウケするだけが全てではないといえばそれまでなんですけどねえ。
 
 
 この騒動の結末がどうなるかは私には予測がつきません。裁判沙汰になるのか、あるいは詳細は謎のまま「すでに終わったこと」または「なかったこと」となるのか。すでにネットの一部では和田氏の別件スキャンダルも騒がれてますが、それはとりあえず切り離しても、一方の当事者から「シロート目にはわかんないよ」と宣言されてる以上、シロートには理解できない終息の迎え方をする可能性は大きいです。
 どうせなら「シロートの芸術観」を大きく覆してくれるような、目からウロコが何十枚もボロボロと落ちるような展開を見せてくれる方が面白いんじゃないの、とも思いますが(かの赤瀬川原平さんの千円札裁判みたいな)、そこまで洒落っ気のある、つーか日本の芸術史上特筆すべき大事件になってくれますかどうか、はてさて。
 
 ともあれ、一連の騒動が忘れ去られる前に、双方の「作品」をナマで見てみたいものではあります。シロートが見てホントにわかんないものかどうか、それだけでも確かめてみたいじゃないですかぁ。
 
 
【2006年6月5日追記】
 「盗作」を大筋で認めたようですね。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060605i301.htm

自らの創作方法について、「構図を借り、私なりのものを加えているのが自分の手法。海外で勉強した画家でないと、このような微妙なニュアンスは分からない」と主張したものの、構図を借りることについてスギ氏の了解が十分ではなかったことを認め、「社会通念上、盗作と言われても仕方ない」などと述べた。(YOMIURI ONLINE:文化:芸術選奨「返上したい」:6月5日3時11分)

(さらに追記6月6日:この記事は「捏造」と反論してます:FNN HEADLINES

 つまるところ氏の芸術観には「何を描くか」ではなく「どう描くか」しかなかった、ということなんでしょうかね。それならそれで、同時代の作家の構図の拝借などではなく、中世あたりの著名な古典作品をモチーフに「現代的解釈」でもやっていれば、まだそれなりに意義があったかもしれません。あるいは、具象をやめてひたすらマチエールを追求する抽象画に行くとか。
 ともあれこの件で、作家として社会的に終わってしまったことになるでしょうし、今後この人の作品をナマで見る機会は事実上ありえなくなった、ということになるんでしょう。和田氏の「芸術家」としての生命線だった「微妙なニュアンス」が確かめられないのは、いち「観る阿呆」としては少々残念でもあります。

2006 06 02 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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