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[exhibition]:Leonard Foujita
パリを魅了した異邦人 生誕120年 LEONARD FOUJITA 藤田嗣治展
○東京展 2006年3月28日(火)〜5月21日(日) 東京国立近代美術館[momat.go.jp]
○京都展 2006年5月30日(火)〜7月23日(日) 京都国立近代美術館[momak.go.jp]
○広島展 2006年8月3日(木)〜10月9日(月・祝) 広島県立美術館[hpam-unet.ocn.ne.jp]
京都展特集ページ[foujita.exh.jp]
○東京展 2006年3月28日(火)〜5月21日(日) 東京国立近代美術館[momat.go.jp]
○京都展 2006年5月30日(火)〜7月23日(日) 京都国立近代美術館[momak.go.jp]
○広島展 2006年8月3日(木)〜10月9日(月・祝) 広島県立美術館[hpam-unet.ocn.ne.jp]
京都展特集ページ[foujita.exh.jp]
●カタログ
発行:NHK・NHKプロモーション・日本経済新聞社/2006年
デザイン:栗原幸治
いやあ感激。そして満足。ようやく足を運ぶことができたフジタ展は、予想通り人出は多かったけれども、待ち時間ができるほどでもなく、ゆっくりと楽しめた。
こういう展覧会こそ、一年以上かけてもっと多くの美術館を巡回するべきじゃないかな。質量ともに、これほどの作品を集めるのはさぞ大変だろうとは思うけれども、だからこそ鑑賞の機会を少しでも多くの人に…とは思う。
それにしても多作な人だ。これだけまとまった量を見るのは私は20年ぶりだけど、その時に出品されていたものとはほんの数点しかダブっていない。他にもまだまだ、まったく知らない傾向の作品群があるんだろうな。
もっとも、全ての作品がどれもこれも素晴らしい、などというつもりはない。同工異曲もたくさんあるようだし、駄作とまでは言わないにせよ別にとりたてて見るほどのものでもないな、と思う作品もあった。
しかしながら、多作というのはひとつの重要な才能だ。たとえばパブロ・ピカソも膨大な作品を遺したが、今ではよくわからない落書きみたいなものまでご大層に額装されて展覧会場でうやうやしく飾られていたりする。フジタだってスケッチやデッサンの類まで含めると膨大な遺稿があると思うし、そのなかには鑑賞に値するものだってたくさんあるに違いない。今回の大がかりな回顧展をきっかけに、今後はそういう細かな面にもスポットを当てる企画展もやれるんじゃないだろうか。楽しみに待っていたい。
今回の展覧会の目玉はなんといっても、長らく見ることのできなかった一連の戦争画だろう。そのうち「血戦ガダルカナル」が京都展にはなかったのは非常に残念だった。この一作のためだけにでも、このあと開かれる広島まで出かけるべきかもしれない、とさえ思った。
というのも、フジタの戦争画こそ、実物を観なければはじまらないものだと思うからだ。色調が極端に暗いこともあって図録では到底その微妙なトーンが味わえないのがひとつ、また画面の大きさを実感できないのもそのひとつだが、技法というか絵のスタイル自体が他の時期の作品と全く異なるのが非常に興味深い。たとえば「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」の遠景とドラマティックな雲の描き方の見事さはどうだろう。あるいは「アッツ島玉砕」の構成の見事さ。“群像が織りなす生と死のドラマ”という主題もさりながら、構図の取り方から自然の風景までもを使って人間どもの争いをことさら劇的に演出する表現手法は、ロマン主義からバルビゾン派に至るフランス絵画(ジェリコーとかクールベあたり)の伝統を、画家がしっかり踏まえ自分のものにしているなによりの証拠だ。日本人は器用で、ヨーロッパの流行をいちはやく取り入れることにも熱心だ、とはよく言われるが、西洋絵画の歴史とその精神をここまで自分の血肉とした作家は他にいないんじゃないだろうか。その精神はいくつかの聖書をテーマにした作品群、そしてもちろん最晩年のランスの礼拝堂に至るまで、画家のなかにまっすぐ生き続けていたはずだ。いわばフジタは、日本画のエッセンスをふんだんにふりかけながら、フランス近代絵画史をひとりでやってのけたようなものでもあったのだ。つくづくとんでもない人だったんだなと思う。
この作家は、一つの作品を仕上げるのがとても早かったという。だからこその多作でもあるだろう。同時に、とても器用な人でもあったんだろうなと思う。「どんな注文でも描いてみせるぜ」という職人的な心意気というかプライドは人一倍あったんじゃないだろうか、と想像する。そういう一個人が、たとえば戦争という国家単位の一大イヴェントに否が応でも関わらざるを得なくなったとき、どうなるか。
一種の後出しじゃんけんみたいな感想になるかもだが、彼の描いた戦争画は、これまで政治的その他の理由によって長らく封印されてきたというけれども、隠してしまってはなんのためにもならない。もっと積極的に、どんどん公開していくべきではないだろうか。戦争画のコーナーに立ち続けているうち、だんだんそんな思いがこみあげてきた。この人が戦争協力者だったとか、いや実は反戦主義者だったとか、そういう議論は今となってはほとんどどうでもいい。まずは謙虚に絵画作品として観るべきじゃないか。私としては、画家として——というよりあえて“絵画職人”として、非常に腕の立つ人だったんだということを実感できたことがなによりだった。
多くの作品に額縁がないか、あっても簡素な木枠で留めているだけで、無粋なガラスを間にはさむこともなく、マチエールを間近でじっくり観察できたのも嬉しかった。作品の表面は磁器のように極めて平滑なのに、描かれた絵は微妙なグラデーションをたっぷり含み陰影に富んでいる。精巧な工芸品を観ているような気分にもなる。単に絵を観るというよりも、もっと大きな何かを体験している感じ。イリュージョンと言ってもいいかもしれないこの不思議な感覚を味わうことが、フジタの絵画の最大の魅力なのかもしれない。なるほど、東京展でリピーターが多かったという話もうなずける。
2006 06 11 [design conscious] | permalink Tweet
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