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[exhibition]:イサム・ノグチ展

 

Noguchi

 
イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展
 横浜展 2006年4月15日(土)〜6月25日(日)横浜美術館
 滋賀展 2006年7月8日(土)〜9月18日(月)滋賀県立近代美術館
 高松展 2006年9月29日(土)〜11月12日(日)高松市美術館
 
 【図録】
 発行:横浜美術館
 編集:横浜美術館/「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」実行委員会
 デザイン:石岡怜子/福岡泰隆/川口久美子
 
 今回の展覧会は、よくある回顧展のような年代別ではなく、「顔」「神話・民族」「コミュニティーのために」「太陽」という4つのテーマを設定しているのが特色(おおまかには時代順っぽくもある)。
 このうち、私がいちばん面白かったのは第3章だった。公園(プレイグラウンド)の模型がいくつか展示されているのだが、それを飽きずに眺めていた。もちろん、自分がそこで遊んでいる姿を想像しながら。
 
 
 イサム・ノグチの作品は、どれも身体に直接的に訴えかける力を持っていると思う。普通の彫刻作品にしても、展示されている作品みんな触りたくってしょうがなかった。係員がいるからかろうじて大人しくしていたけれども、周りに誰もいなかったら、きっとぺとぺと触りまくっていたことだろう。
 サーフェイスの肌触りとか手にしたときの重さとか、そういう質感というか実感というか、すなわち官能性と言っていいが、それがこの人のいちばんの魅力なんだと強く思った。
 
 たとえば第1章「顔」に置いてあった〈リトル・スレート〉〈グレゴリー〉〈追想〉〈化身〉といった作品群。タイトルを示したプレートを見ずに作品だけを眺めていて、私はてっきり黒檀かなにかの木製素材作品かと思ってしまった。あとでみなブロンズ製と知ってへぇと思って、まぁいかに私の見る目がないかという話でしかないんだけれども、ならばなおのことその感触をこの手で確かめたかった。なぜ木製と思ってしまったのかというと、表面仕上げのなめらかさももちろんだけれども、それぞれのパーツの軽やかさ、繊細さが木のおもちゃっぽく思えたんだろう。
 形状からしても充分エロティシズムを感じさせるが、表面のなめらかさやすべすべ感もそれをより強調している。この「思わず触りたくなる素材感」は展示されていたほとんどの作品に共通していて、第4章「太陽」の〈幼年時代〉〈無言の内に歩いている〉といった花崗岩の作品なども、大部分のざらざら部分と一部分のすべすべ部分とのコントラストがとても面白い。ああ、手のひらでその感触を味わいたいっ!
 
 
 プレイグラウンドの模型をしげしげと眺めて飽きなかったのは、公園だったら手のひらどころじゃなく全身で味わうことが可能だからだ。何十分の一かの縮尺にあわせて自分の身体も縮小させ、ついでに年齢もうんと下げて、子供にかえったつもりで、私はしばし模型の中で遊んでいた。
 公共施設、なかでも公園となると、ふつう「誰がデザインしたか」などとはあまり考えない(設計が原因の重大な事故でもあれば別だが)。仮にその公園の隅に銘板があったとしても子供には関係ないだろう。しかし、滑り台の感触だとか、ちょっとした段差でつまずいてひざをすりむいたとか、砂場でどろんこになったこととか、そういう記憶は身体に刻みつけられて、けっこういつまでも覚えているものだ。そしてそういう身体の記憶こそ、作家がいちばん望んでいたものではないだろうか。
 イサム・ノグチは、こういう公園デザインも含めて自分の作品をみな「彫刻である」としていたらしいが、それはつまり「ふつうの彫刻作品も全身を使って感じて欲しい」と願っていたからだ、と思われてならない。ということで、会場のあちこちにあった「展示作品にお手を触れないでください」という注意書きほど、この場にそぐわないものはないよなぁと思ったのでありました。ま、会場の性格上しかたがないんだけどね。
 
 
 私がしげしげと眺めていたのがもうひとつ。マーサ・グラハム・ダンス・カンパニーの《暗い牧場》というダンス作品の舞台装置とともに、その舞台のヴィデオ映像(部分)が流れていたのだが、なるほどノグチ作品とダンスは相性がいい。この作品でのマーサ・グラハムは、彫刻が内包している身体性や官能性をそのまま引き出しているかのようにも思えた。ちょっと贔屓目すぎるかもしれない見方だが。
 
 

2006 07 13 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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