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[book]:ジプシー

●ジプシー 歴史・社会・文化
水谷驍著/平凡社新書327/2006年6月刊
ISBN4-582-85327-7
装幀:菊地信義
《神秘的な流浪の民》《褐色の肌と黒い髪を持った、放浪を運命づけられた民族》——「ジプシー」という言葉を聞いて浮かべる一般的なイメージは、今だにこんな感じなんだろうか。この本は、その種の甘美とも言えそうな通俗イメージを根底から覆そうとする。オビにあるように〈ジプシー〉とは誰のことを指すのか、その問いに、現時点でできうる限り学問的な立場から答えていこうとする試みである。
そういえば一時期、「ジプシー」という語はポリティカル・コレクトネスの観点から問題があるとして、かわりに「ロマ」という言葉が紹介されたことがあった。しかし、それもいつの間にか積極的には使われなくなった。「ロマ」を自称するグループは彼らのうちごく一部であり、誇りを持って「ジプシー」を使う人々もまた多いというのがその理由なのだそうだ。このことからもわかるように、いわゆる「ジプシー」と呼ばれる人々は決して一枚岩ではない。どころか、きわめて多様な特徴が観察されるので、ひとくくりにジプシーと呼ぶこと自体に無理がある、というのが最近のハヤリらしい。そんなコロコロ変わられてもねぇって気もするんだが、いいのかそれで。
久しくひとつの呼称のもとにくくられてきたこうした多様な人びとの実態に迫ることはなかなか難しい。ひとつの呼称のもとに一括されてきたという事実に着目すれば、そこからは当然、一括することができるほど顕著な共通性が、あるいは全体に共通する実体が存在すると考えられて、「ジプシー」一般について語りたくなる誘惑が生じる。(中略)しかし、こうした一般的ジプシー像は主流社会による一方的な思いこみにすぎないとなれば、そこに一括されている個々の人間集団について個別にその歴史なり文化なりを明らかにしてゆくことが必要となろう。そうすればこんどは、「ジプシー」というひとつのまとまりは姿を消して、無数に細分化された個別の人間集団の像が浮かび上がってくることになる。これでは、ジプシーと呼ばれる人びとはそもそも存在しない、あるいはジプシーとは主流社会による根拠のない固定概念にすぎない、といった逆の単純化にもつながりかねない。(pp.15-16・太字は引用者)
揚げ足取りのようで気がひけるが、「主流社会」によるものであろうとそうでなかろうと、「根拠のない固定概念」がこれほど長きにわたって一般に受け入れられるものだろうか?
ここで「主流社会」という語が使われているが、著者は「主流社会」との関係性のうちにジプシーの正体を探ろうとする。つまり、「ジプシー」とは戦争や革命や飢饉、あるいは経済システムの変革といった大きな変動が起こった際に「主流社会」の構造から離れてしまった人びとの集団である、というのがこの本でのとりあえずの結論だ。インドを起源とし、バルカン半島で熟成され、そこからヨーロッパ各地やアメリカ大陸にまで広がっていった…というような直線的な単純な構図だけではなく——そういうルートもあったかもしれないが確実な証明が困難なので留保しておく——長い歴史のうちにはそれ以外の要因が大きく関わっているはずである、という議論である。
そりゃまあ、そうでしょう。〈万世一系〉でもあるまいし、今どき一切の混血もなく純粋に受け継がれてきた血統が存在すると思い込む方がどうかしている。ましてや「ジプシー」の通俗イメージは、ヨーロッパ大陸各地を自由気ままに放浪している姿だ。次第にいろんな<民族>の血が混じり合ってゆくことは容易に想像できる。結果、ジプシーの生活や文化は複雑に多様化し、非ジプシーとの境界線もひたすら曖昧になる。
「ジプシー」という、ひとくくりに語れる集団はいない、しかしある集団を指して「(各地で名称は異なるが)ジプシー」と呼んできた歴史的経緯はある。この2点を前提としたうえで、では改めて「ジプシー(ヒターノ/ツィガーニ/ティンカー/トラヴェラーズ/シンティ・ロマ/etc…)」とは何か、を考えていかなければならない。残念ながら、本書はそのツメの部分がやや拙速ではないかと思う。狙いは悪くはないし、学者らしい慎重な言い回しにも好感が持てるものの、結論部分で少々突飛になってしまった印象なのが惜しまれる。
本書の最後にサンカ研究との共通課題を示しているあたりも、なんだかとってつけたような感がある。「主流社会のシステムから外れてしまった人びと」を考えることは、それはそれで非常に重要な課題だとは思うが、ジプシーの議論から一足飛びに一般化させなくてもいいのではないかと思う。はからずも著者自身が言う通り、これでは「逆の単純化にもつながりかねない」のではないか。
それにしても。通俗的なジプシー像が18〜19世紀の産物であって、現在では学術上根拠に乏しいものだということは本書のおかげでよくわかった。しかし、それを言うなら「国民性」やら「民族性」やら、世間一般に流布し再生産されている多くのイメージじたい、同じような時期に同じような経緯で産み出されたものが多くないか。たとえば「民族」という概念からして、今や根本的な再検討を要するはずではないのか(日本語では nation と ethnos が混同されることもしばしばだし)。なにもひとり「ジプシー」だけが、古いイメージのまま残されているわけではあるまい。
なにより、そういう「古い」とされるイメージが、21世紀の今もなお民間伝承のように生き続けている事実は軽視されるべきではないし、ましてや「根拠がない」からと頭ごなしに否定してもしょうがない。「根拠はない」のではなく、むしろ何かしらの理由があるからこそ「古臭いイメージ」がなおも生きていると考える方が、より現実的ではないだろうか。「ジプシー」を「ジプシー」たらしめてきたものの正体は、おそらくそのあたりに潜んでいるはずである。
「民族」意識をはじめとする18〜19世紀的なものの考え方は、100年以上たってもまだ頑固に生き残っていて、多くの人びとの魂の拠り所になっている反面、紛争やテロの火種としても有効であり続けている。しかし、それもいつの日か、ゆるやかに乗り越えられていくことだろうと、私は思う。たぶん今世紀が終わる頃には、いま現在の常識の多くは笑い話になっているかもしれない。いや、この妄想にはとくに「根拠」はないんだけれども。
* * *
おまけ。「いわゆるジプシー」の「通俗的な歴史イメージ」がフルに展開された、おそらくは史上最高の映画。

●ラッチョ・ドローム
トニー・ガトリフ監督/1993年/フランス映画
BWD-1139/販売元:ブロードウェイ
ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスをはじめ錚々たるメンバーによる、音楽とダンスの一大ページェント。日本での公開はずいぶん遅かったが(1999年か2000年ごろじゃなかったっけ)、「民族舞踊」ファンの間ではかなり早くから興奮気味に語られていた。私も海外通販を利用してヴィデオカセットを買ったが、泣くほど高かった記憶がある(上の日本版DVDが4枚は買えそうな値段だった)。しかしこの種の音楽やダンスに関心のある人なら見ておいて損はない、まさしく「一家に一枚」級の作品だと思う。
ガトリフ監督はスペイン系のロマの血を引くとされており、この映画は自らのルーツを追い求めた作品とみていいだろう。インドのラジャスタン地方からはじまり、エジプト、トルコ、バルカン半島をへてフランス、スペインまで、オールロケを敢行した映像が圧倒的に素晴らしい。
「いわゆるジプシー」についての学問的研究は今後も進むだろうし、通俗的でロマンティックなイメージを大きく覆す事実もどんどん発見されることだろう。そっちはそっちで必要かもしれないが、そういうこととは全く別に、音楽とダンスをつかって描かれた「自画像」として、この作品もまた長く語り継がれるはずである。
2006 08 18 [booklearning] | permalink
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