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[exhibition]:美のかけはし

●特別展覧会 開館110年記念
美のかけはし ——名品が語る京博の歴史
2006年7月15日(土)〜8月27日(日)京都国立博物館
【展覧会図録】
発行/京都新聞社 2006年7月刊
デザイン:大向務+坂本佳子+市川真莉子
本展は明治30(1897)年5月に開館した京都国立博物館(帝国京都博物館)の歴史的資料と、館収蔵のたくさんの美術・工芸品のなかから代表的な作品を展示している。
こういう機会でもなければ滅多に見られるものでもない種類の展示物、たとえば本館の設計図面が興味深かった。今ではCADなどコンピュータによるキレイな作図図面ばかりだが、手描きの、しかも修正でつぎはぎだらけの図面にはえもいわれぬ味がある。当時使っていた製図用具ってどんなものだったんだろう。
もちろん、メインの展示物は国宝・重文クラスを含む収蔵品の数々で、たとえば伝・俵屋宗達の、かの有名な『風神雷神図屏風』も京博の所蔵品だ(正確には建仁寺寄託品)。この絵はこれまでにも何度か眺めたことがあるが、改めて観てもやはり面白い。たぶん光琳などでも同じだろうけれど、雑誌や画集やテレビの美術番組などでさんざん見慣れていて、もうほとんど「記号」と化している図柄ではあるんだけれども、実物の醸し出す雰囲気——ベンヤミン言うところのアウラ、なのかな——は一種独特なものがある。この絵でも、たとえば筆遣いが意外なほど荒っぽかったりするし、色の塗りむらも結構目立つ。しかし複製された画面からはそのあたりがつるんと抜け落ちていて、なんだか整いすぎているのだ。先の「手描きの設計図面⇔CAD図面」との関係にも言えることだが、ちゃんと人間の息づかいが感じられるというか、「人の手で作ってるんだぜ」という主張がしっかり見えるのがいい。ずっと複製しか知らない人なら逆の感想を得るかもしれないんだけれども(意外に汚い画面でがっかりした、とかね)。
実は、本展はプラド美術館展に行った翌日に見ていて(感想をブログにアップするのが遅れたのは単に私の怠慢であります)、西洋絵画のこってり味の直後だったから、余計に日本美術のあっさり風味が印象に残った。
たとえば国宝『釈迦金棺出現図』。11世紀、平安時代中期の作品だという。絹本着色の大きな絵だが劣化も激しく、落ち着いて見ないとなにが描いてあるのかよく把握できない。図録の解説文を引いてみる。
釈迦が、入棺後に、遅れて到着した母の摩耶夫人の嘆きを静めるため、棺より起きあがり説法した場面を描いたもの。珍しい主題だが中国に例があり(以下略)(p.224)
画面中央やや上方に大きく釈迦が描かれている。釈迦の背後からは後光が差している。視線は右下を向いており、その眼の先には母である摩耶夫人がいる。このふたりを、僧侶からふつうの人まで大勢の人物が取り囲み、成り行きを見守っているという図。
今ではすっかり色もくすみ、絵の具の剥落も激しくいかにも骨董品然としているが、なにしろ宗教画であり、しかも復活の奇蹟を描いた作品なので(テーマとしては母子の情愛、というのもあるだろう)、もともとは神々しくも華やかな画面だったろうな、と想像される。誰もが思わず手を合わせたくなる荘厳さも備えていたに違いない。
プラド展にも、宗教画あるいは宗教的奇蹟を主題にした絵がいくつもあった。たとえばムリーリョ作『聖パウロの改宗』(17世紀後半)。画面左上、天上から十字架を抱いたイエスが光と共にあらわれ、パウロ(改宗前はサウロ)とその一行が恐れおののくという図だ。前にも書いたが、この絵も登場人物のポーズがそれぞれ非常に演劇的に描かれていて、そこがいかにも西洋絵画だなと思う。
そもそも主題というか絵の目的が違うんだし、制作された時代だって大きく異なる両者を比較することにまるで意味はないのだが、『釈迦金棺出現図』とは人びとの描かれ方、とくに奇蹟を前にしたときのリアクションが大きく異なるのがとても面白かった。イエスが天空から突如現れるのは、腰をぬかさんばかりの文字通りの「奇蹟」であるのに対し、釈迦が入棺後であっても母のために起きあがるのは(少なくとも作品世界の中では)当然のこととして受け止められていたのだろう。釈迦のまわりにいる人びとはみな、腰を抜かすこともなく、静かに神妙な顔つきでその最後の説法に一心に聴き入っているのである。
重ねて言うが11世紀の日本の絵と17世紀のスペイン絵画を比べるのは無茶な話。しかし、現実に死体が起きあがったり空中に人物が浮かび上がったりしたら、そりゃ死ぬほどびっくりするだろうから、ムリーリョの絵の方がよりリアリティがあって共感しやすいはず…なんだけど、なぜか私には釈迦図の方がしっくりとくる。それが何故なのかは、よくわからないのだけれども。
話題が逸れるが、私がいわゆる「日本画」をきちんと見るようになったのは大学生になってからだった。陰気くさいのでそれまで敬遠していたんだけれども、あるときから、無理をしてでもなるべく見ておこうと心に決めたのだ。
しかし、日本画の展覧会はとても疲れる。洋画なら古典も近現代も関係なくわりと気楽に見て回れたんだけれども、日本画の場合は、会場を出たらいつもへとへとになっていた。
最近、それが逆転していることにふと気づいた。西洋絵画の展覧会よりもむしろ日本画(新旧問わず)の方が会場内でも落ち着くのだ。
こういう趣味の変化は単に年齢的なものかもしれないが、それだけでもないような気もする。今になってようやく日本画が「わかる」ようになってきた、というのでもない(絵が「わかった」ことなど一度もない)。あれこれ理由はつけられるのだろうが、そのことに対しことさら意識的になることもないだろう。そのうちまた好みが変わることもあるだろうし、見たいときに見たいものを見る、というシンプルな態度で充分なんだろうな。
2006 08 26 [design conscious] | permalink
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