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[stage]:アクロバティック白鳥の湖

 
 ポワントは物語を語ることができなくても、ポワントはドラマを伝達する。ポワントで立つバレリーナは、舞踊において最大限の存在である。——ジョージ・バランシン(石井達朗訳)
 

Acrobatic

 
●アクロバティック 白鳥の湖
 東京公演 2006年7月28日〜8月13日 Bunkamura オーチャードホール
 大阪公演 2006年8月18日〜8月20日 梅田芸術劇場メインホール
 福岡公演 2006年8月26日〜8月27日 福岡サンパレスホール
【公演プログラム】
 発行:TBS/Bunkamura
 アート・ディレクション/永石勝(triple-O)
 
 早々に来年の再来日公演が決定したそうだが、それも当然だろう。エンターテインメント性と芸術性がこれほど高い次元で融合した舞台も、そうそうお目にかかれるものではない。
 クラシック・バレエの名作『白鳥の湖』をモチーフに、広東雑技団が超絶技巧の粋を繰り広げる、全4幕・2時間余りのステージ。ジャグリング、棒のぼりや空中ブランコ、トランポリンなど大小の小道具を使った妙技にも目を見張るが、なによりこの舞台がきちんと「ダンス作品」になっているところが素晴らしい。
 プログラムに載っている出演者へのインタビューによると、そこのところ——つまり“役を演じる”ことと“音楽とそのリズムに合わせる”ことがもっとも難しかったそうだ。
「むしろそこからが大変でした。“東洋の”つまり“雑技の”ではなく、クラシックバレエの『白鳥の湖』をマスターしなければなりません。雑技とバレエでは筋肉の使い方も違うし、私たちはそれまで“誰かを演じる”ことなどなかったのです」(ウェイ・バォホア)

 この作品がキワモノかそうでないかの境目は、とにもかくにもこの一点にかかっていると言っていいだろう。そして、彼らは見事にその一点をクリアしてみせた。
 
 チャイコフスキー作曲のバレエ『白鳥の湖』には、実はさまざまなヴァージョンがある。悲劇で終わるもの、ハッピーエンドを迎えるものといったストーリィの違いもさりながら、役の解釈も演出家・振付家によってさまざまだ。今ではその細かな差異を楽しむことが観客の主眼になっているといってもいいだろう。オディット/オデールの二面性や、ジークフリート王子の苦悩や葛藤、あるいはロットバルトの存在感。登場人物のそんな内面性を語ることに、長らく腐心してきたと言っていい。
 しかしその前に、まずこの物語はファンタスティックでロマンティックな「おとぎ話」であるはずだ。なにより、バレエやオペラといった“総合芸術”は、もともと観客の眼前に「この世ならぬ美しいもの」を見せつける場ではなかったか。
 映画『アマデウス』だったか、モーツァルト時代の“オペラ”を再現していたシーンがあったと思う。ハリボテの馬が出てきたり、ロープに吊されて役者が空を飛んだりと、下世話なまでに派手派手しいものだったと記憶している。あれがそのまま史実に忠実なのかどうかは知らないが、いずれにせよ“観客にスペクタクルを提供する一大エンターテインメント”という性格のものだったことは、たぶん間違いあるまい。そういうふうな、「本来バレエってこういうもんじゃなかったのか」とまで思わせるようなスペクタクル感が、この作品には隅々にまで溢れている。
 
 たとえば、舞台装置ひとつとっても、今どきここまでやるかーッというくらい、こってりしている。これがまた良いんですね。たぶん、ふつうのバレエ団だと、背景の装置はわずかな造作物で象徴的にあらわし、そのぶん照明効果を駆使して、できるだけミニマムな舞台を作ると思う。ダンサーの動きに集中してもらおうということもあるだろうし、更に言えば経済的な理由もかなり大きいはずだ(搬入・搬出・仕込みからメンテナンスまで、装置が増えると裏方さんの仕事がべらぼうにふくれあがる)。しかし、ここではそんな“モダニズム”をあざ笑うかのように、圧倒的なまでの物量作戦で、大がかりで過剰な装置が惜しみなく投入される。そして、その中で演じるどの役者も、それに決して負けていない身体の持ち主であり、技術を誇っているのだ。
 
 
 ストーリィも興味深い。まず、ひとりのお姫さまが登場する。作品冒頭で悪魔によって魔法をかけられ、白鳥に変身させられるのだが、この湖畔は具体的にはどこだかわからない。この世ではないようにも思える。
 対する王子さまだ。彼のいる城はあきらかにヨーロッパ風なのだが、これも具体的にはどこだかよくわからない。ゲルマンかアングロサクソンか、はたまたラテンかケルト系なのか、ともかく子供の頃みた絵本のいちページのような、「昔むかしのあるところ」。
 王子は助けを呼ぶ白鳥の夢を見て、それで彼女を捜しに旅に出るのだが、ここでかなり具体的に場所をあらわすのが面白かった。王子とその一行は東へ向かうのだ。エジプト〜ペルシャ〜インド、さらに東へ行って東南アジア、すなわちカンボジア、ベトナム、タイを歴訪する。そして彼はついに中国に到着する。なんと「白鳥の棲む湖」はこの地にあったのだ。
 なにしろ湖の上を、蓮の葉でつくった舟で移動するのだ。アジアンテイスト満点なんだけど、しかしこれはチャイコフスキー作曲『白鳥の湖』のパロディでもカリカチュアでもない。あ、こういう解釈もアリなんだ、という説得力がある。
 というのも、自分の宮殿にスペインやらポーランドなどの各国の娘を呼んで舞踊会を開き、自分は領国にいるままという、元版のようなヒッキーな王子などではない。夢に見た姫をもとめてユーラシア大陸を横断してしまう、きわめて行動力に溢れた王子さまなのだ。夢に見た姫がはるか東方の果てにいたというのは、究極のオリエンタリズムではないか。
 そんなアクティブな彼でも、黒鳥の蠱惑的なダンスにまどわされて、いちどは裏切ってしまうあたりがまたよろしい。つーか、いつも思うんだけど、黒鳥の方が明るそうだし元気そうだし、恋のお相手としてはそっちの方が楽しくね? 白鳥の方はいつも暗い顔をしておのが運命を嘆いているだけで、なんか地味でね? …とか言うと世の女性たちから総スカンくらいそうですが(^_^;)、ま、それはともかく、王子が一度は揺らいでしまうのはよーくわかるんでありますね。
 しかしそれでは、現実はともかく(笑)「おとぎ話」にはならないので、王子は悪魔と戦い、勝ち、めでたく白鳥の姫を救う。エンディングは蘭の花が咲き乱れるカラフルな極楽浄土で、東洋の美学ここに極まれり、なんであります。…と、書きながらふと思ったんだけど、このあと王子さまはお姫さまを連れて西の果ての自分の城まで戻るのかな。なんだかこのまま、この地で暮らしそうな気もするんだけど、じゃあ領土はどーなるんだ。って私が心配することではないんだけど。
 
 オハナシとしては、悪魔を倒す弓の登場があまりに唐突だったのが、わずかに惜しまれる。矢の方は第二幕の最後に白鳥が落としていった羽根を使うのだが、弓の方も、伏線としてどこかでいちど出しておいた方が、よりドラマティックじゃなかったかな。その一点が気になったが、全体としてはきちんとファンタジーを語っていて、とてもよくできている。アクロバティックの妙技の数々がきちんとストーリィに組み込まれ、物語がちゃんと体技を必要としている。相互に無駄がない。結局、作品の“説得力”とは、手持ちのネタをきちんと振り分けできる演出力にあるんだなあと思った。
 
 そしてそして。クライマックスの、王子の肩の上に乗ってのポワントとアラベスクのポーズ。さらには頭のてっぺんで、片足でポワント立ちをしてこの上なく優美にポーズを決める。作中の最大の見せ場なのだけど、ここへ来るまでにしっかりとオハナシを見せているので、きわめて自然な、これ以上ない“至上の愛”の表現となっているのが素晴らしい。もちろん上に立つ白鳥=姫の背中からワイヤーなど吊っていない、文字通り“身体を張った”芸である。
 もともとポワントという技法は、天上へと志向する精神を目に見える形にあらわしたテクニックだ。男性舞踊手の頭上で踊るバレリーナ! おそらく西洋バレエの振付家が一度は夢に見ただろう、しかし現実にはとてもじゃないが不可能な、そんなシーンが、いま、目の前で実現している。これに興奮しない方がどうかしている。
 
 
 
 もうひとつ面白かったこと。おそらく出演者全員に言えるのだが、上半身よりもむしろ下肢の動きの方がなめらかだった。ポール・ドゥ・ブラって言うんでしたっけ、白鳥の羽根の動きを表現するときふつうは腕を使うけれども、彼女たちの場合はむしろ同じことを足でやる方が(このとき、身体はでんぐり返りの状態)よりスムースだったように見えた。腰から下、下半身の柔らさというのが雑技にもっとも必要な身体ということなのだろうか。先に引いたインタビューにも「バレエとは筋肉の使い方が違う」とあったが、その一例を見た気がした。
 
 ※冒頭の引用は石井達朗『アクロバットとダンス』青弓社刊より。

2006 08 20 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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