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アルベルト・ジャコメッティが見た世界

 

Jacometti

 
●20世紀美術の探究者 アルベルト・ジャコメッティ展 矢内原伊作とともに
 2006年6月3日〜7月30日 神奈川県立近代美術館 葉山
 2006年8月8日〜10月1日 兵庫県立美術館
 2006年10月10日〜12月3日 川村記念美術館
 【展覧会図録】
 発行:東京新聞
 デザイン:田中久子
 
 
 先日ルーブル展を見に行ったとき、立体(彫刻)作品と平面(壷絵)作品との違いを興味深く眺めた(感想はこちら)。彫像がどれもリアルに作られていたのに対し、壷や皿に描かれた人物像はいかにも図像的で、そのギャップが面白かったのだ。
 これは技術的な問題もあるんだろうが、当時の人びとの眼からは同じようなリアルさで見られていたようにも思える。本当のところはよくわからないんだけれども。
 その後、西洋絵画はどんどん緻密になっていき、やがて「あたかもそこに息づいているかのような」リアルな肖像画がたくさん描かれることになる。絵画史のこのダイナミックな流れに比べると、彫刻は最初から完成していた分、ここまでの変化(というか進化というか)はなかったように思える。
 
 ところで、学校で習う美術史は絵画が主体で、彫刻作品はときどきトピック的に登場するだけだ。上で私は「彫刻には大きな変化はなかった」と書いたけれども、実のところ彫刻史に詳しいわけではない。それどころかほとんど知らないのである。なにしろ、他に西洋彫刻家の名前をあげろと言われたら、オーギュスト・ロダンとヘンリー・ムーアとジョージ・シーガルと、えーと、というあたりで口ごもってしまう程度の知識しか持っていない。
 その「数少ない」彫刻家の中でも、アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)は名前が知られている作家のひとりだろう。
 とはいえ、私はその作品をちゃんと観たことはなかった。中学校だか高校だかの教科書に載っていた、やたらに細長くってごつごつした人物像しかイメージできない。まったく白紙のままで美術館に足を運んだ。
 
 行ってみて驚いた。彫刻作品の面白さもさることながら、彼の描いた油絵やスケッチがとても興味深かったのだ。
 さきの古代ギリシャの話題を続ければ、当時はまだ絵画と彫刻は「べつもの」であって、それは技術的な問題も大きかっただろうけれども、それ以上に「それはそういうものだ」的な割り切りが、当時の人びとの眼にはあったように思う。その割り切りはしかし長く続いていて、その後絵画のリアリズムは盛んに追求されていくが、それでも絵画は絵画、彫刻は彫刻だった。ジャコメッティは、そこを統一させた。つまり、この人は平面であろうと立体であろうと、世界を同じ眼で捉え、同じ手法で表現することができた人だった。
 
 彫刻家のデッサンといえば、たとえばロダンのそれもよく知られていると思う。むかしパリのロダン美術館に行ったときに彼のデッサン集を買い求めたことがあるのだけれども、人体を量感で捉える描き方で、やはり彫刻家のデッサンは違うのだなあと感心した記憶がある。とはいえ、ロダンの場合はあくまで彫刻作品のためのエスキスでしかなかったのではないか。ジャコメッティとはそこが決定的に違う。
 
 
 ジャコメッティの描く絵は、それが大きな油彩作品であっても、画面の隅々まできっちり筆の入ったものではない。人体のアウトラインを取る線は幾重にも引かれ、彩色は顔とその周囲を中心に、わずかな色数でごく大まかに塗り分けられているにすぎない。完成途中で、というより下描きの段階で投げ出したような、中途半端な作品のようにも見える。
 しかし、そんな絵画群をいくつも眺めていくうちに、これは「これ以上手の加えようもない」完成された作品であると思うようになった。作家が言いたいことは、これで充分語られていて、そのあとはただの蛇足でしかなくなってしまう。
 
 背景や、首から下はほとんど手がかかっていないにもかかわらず、頭部だけはどれもたくさんの線で埋め尽くされ、ほとんど真っ黒になってしまっている。この作家がいかに「人間の顔」を捉えるのに苦心していたのかがよくわかるのだが、その線のタッチが、彼の彫刻のあのごつごつ感、流れ出た溶岩が冷えて固まったかのようなあの質感と全く同じなのだ。そして、絵画をじっと眺めているうちに、その頭部があるボリュームを伴って、こちらに向かって盛り上がってくるかのような錯覚にも陥ってしまう。えっと思って画面に数歩近づき、やっぱりそれが「ただの平面」であることを再確認しなければならないほど、ジャコメッティの平面作品は「立体作品」そのものだった。
 
 大きなキャンバスだが、四辺にはかならずラフな枠線が引かれ、主題となる人物は上部を広く開けて真ん中やや下方にぽつんと描かれる。それも、ほとんどが真正面を向いて座っているポーズだ。ジャコメッティの眼には、世界はこういう風に見えていたのかと思うと、とても不思議な気分になる。
 実際、人の眼は謎に満ちている。たとえば複数の人間がテーブルの上の赤いリンゴを見て、ともに「赤いリンゴだ」と証言したとしても、彼らが見たモノが全く同じ画像であるという保証はどこにもない。こういうカタチのものをリンゴと呼ぶ、だとか、こういう色を赤色とする、などと「学習」しているからみな一様に「赤いリンゴ」と答えるだけで、仮にその物体に名前もなくそれまで誰も見たことがないモノだとしたら、その見え方は人によって全然違ってくるはずである。
 ジャコメッティは「見えるものを見えるとおりに表す」ことを追求した人であるという。ならば素直に考えて、彼の眼は人物を、風景を、じっさいにこれらの作品通りに見ていたと思うしかない。要するに「赤い」とか「リンゴ」などという記号的な概念を、全てとっぱらった眼がここにあるのだ。
 
 今回の展覧会には、彫刻や油彩画以上に、スケッチや落書きのたぐいが多く展示されていた。ナプキンや新聞紙、雑誌の片隅などに、ボールペンで即興的に描かれたものばかりなのだが、そのほとんどが同じようなタッチの頭部。食事中や談笑中にほんの手すさびで描かれた落書きなんだろうが、いついかなるときでもジャコメッティの眼はジャコメッティだった。そこのところが凄いと思う。
 こういう眼を持った人はゲージュツカになるしか道がない、のであるけれども、彼の場合は生まれついてのものではなく、努力して勝ち取った眼でもあった。初期の作品(北斎の模写までやっている!)は、当時の前衛だったキュビズムなどの影響下に作られた作品で、それなりに面白くて良い作品ではあるものの、所詮「普通の眼」の持ち主の手になるものだった。
 
 
 ふたたび、古代ギリシャに思いを馳せる。人間が「直接役には立たないモノ」を作り出して二千年以上、立体物の表現と平面物の表現のあいだには、常に何かしらの乖離があったのだけれども、アルベルト・ジャコメッティはついにそれをひとつにしてしまった。
 
 ほとんど奇跡のような「事件」なんだろう、と思う。
 

2006 09 18 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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