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[exhibition]:須田剋太展

 

Suda

 
●生誕100年記念 須田剋太展——生命(いのち)の賛歌——
 兵庫展 2006年10月7日〜11月5日 明石市立文化博物館
 大阪展 2006年11月9日〜11月21日 京阪ギャラリー
 埼玉展 2007年4月28日〜6月24日 うらわ美術館
 愛知展 2007年7月5日〜8月26日 田原市博物館
 
 【展覧会図録】
 発行:神戸新聞社/2006年
 装丁者名記載なし
 
 「生誕100年」と聞いて、え、もうそんなに、とまず思った。この人が亡くなったのは1990年だから、つい最近とは言えないかもしれないが、しかしそれほど大昔のことでもない。ほとんど同時代感覚だ。
 100年と聞くとなんだか歴史上の人物のようにも思えてしまうが、須田剋太は享年八十四だから計算は合う。ちなみに同年(1906年)生まれには愛新覚羅溥儀、朝永振一郎、坂口安吾、ルキノ・ヴィスコンティ、ディクスン・カー、などがいる。このへんのラインナップはやっぱり歴史上の人物だ…あ、本田宗一郎も同年生まれだけど91年没だから、1年だけ長生きしているのか。
 などと書きながら、実は須田剋太の仕事を詳しく知っているわけではない(須田国太郎とごっちゃにしていたフシもある)。司馬遼太郎の人気シリーズ《街道をゆく》の挿絵を描いていた人ね、という程度の認識しかなかった。作風からみてなんとなく関西の人だとばかり思っていたのだけれども、出身は埼玉。まぁ兵庫(確か西宮だったはず)に居を定めて長かったから、あながち見当はずれでもないのかもしれないけれど…。
 
 
 …なんだかぐだぐだな書き出しで申し訳ない。要するに、名前は聞いたことがある、作品もかろうじて見たことがある(主に印刷物だけれども)、という程度でそれ以上の知識はなにもない、そういう人の回顧展を見に行った、と。で、たいへん面白かったので、こうやってブログに書いている、と。そういうわけであります。
 
 
 こういうまとまったかたちでの回顧展ははじめてらしい。若い頃の作品から順序よく見せてくれるので、とてもわかりやすい。で、キャリアのなかで重要なのは、この人は一時期完全に抽象の人だった、というあたりだろうか。展覧会に集められた抽象画作品はいずれもマテリアルの面白さを見せるもので、硬質で乾いた印象を受ける。「ハードボイルド」と言い換えてもいいかもしれない。じゅくじゅくした日本的な情緒に訴えるというより、あるカタマリがドンとぶつかってくる感じ。思いをストレートに出さずどこか醒めていて、では理知的なのかというとそうでもなく、非常に触覚的であり身体的…というふうな印象を持った。
 そのあたりの、身体にダイレクトに作用するような作風は、具象画に回帰するようになってからも失われていない。というよりも、絵画のモチーフとして具体的な題材(人物や風景や花…など)を得てからの方が、より絵が自由になり、そのぶんさらに「カタマリ」性が増していったような気がする。
 この人の絵は、一見乱暴に殴り描きされたように見えて、マテリアル(フランス語ふうにマチエール、と言った方がいいのかな)の繊細さはちょっとびっくりするくらいだ。たとえば、後期のいくつかの作品で、キャンバスに油絵具やグワッシュで描いたその上から、色紙を細かく切った破片をたくさん貼り付けるという技法を使っているのだけれども、その紙片の切り口といい散らばせ方といい、とても絶妙なのだ。おそらく本人の作業それ自体はそうとう無造作なんだろうけれども、それが無造作(つまり無意識)であるが故に、かえってその絶妙さが際だつ。そういえば先日、アクション・ペインティングの作家ジャクソン・ポロックの作品に史上最高値が付いたとかで話題になっていたが、この画家のやっていることは具象でありながらほとんどアクション・ペインティングに近いんじゃないか。

 
 須田剋太の年賀状、というコーナーがあって、十二枚の原画(にしてはかなりでかい)が展示されていたが、これが愉快だった。それぞれの干支にちなんだ動物を描き、その下になにやら漢詩風の文言を書き殴っているのだが、たとえば子(ねずみ)はこうである。

差異存在実体
体験破壊否定変化
絶対矛盾自己同一
天上天下唯我獨尊(1984年)

 およそ年賀状らしからぬ熟語ばかりで、どうにも面白すぎる。会場で、なんじゃこりゃああああああ、とひとりでげらげら笑ってしまった。いやはや、この人は骨の髄まで芸術家なんでありますね。
 
 
 展示された作品群の中で私がいちばん好きなのは、展覧会後半、これもひとつのコーナーとしてまとめられた「書」の一群。書といっても、そこはさすが須田剋太、一筋縄ではいかないところが痛快だ。ふつうに白い紙に墨痕鮮やかという作品もあるにはあるけれども、薄墨で描いた文字の背景を濃いめの薄墨で塗ってみたり、黒い背景に赤い○を書いてみたりと、表現手法がまさに自在闊達。そしてここでも、筆あとのマチエールこそが最大のみものになっている。いやあ、こういうのは観ていて全然飽きません。
 
 ほとんど晩年に近い1987年の書に、W.B.イエイツの詩文を書いた屏風がある。まるでこの画家自身のことばのような文章だと思った。
我れに
狂器を
与へよ
さらば
我が八十年
の生涯を
破棄せん

 原典は何だろう。ちょっと本屋に行ってイエイツの詩集を探してみなくちゃ。
 

2006 11 07 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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