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「観客」考(2)
前回は「アイリッシュ音楽のライブでの観客手拍子問題」をネタにした。実は、このエピソードのポイントは観客のマナー問題ではない。また、終段近くでジャンル云々と書いたが、そういう問題ともちょっと違う。
同じミュージシャンの同じ演奏が、かたやコンサートホールでは静聴することを要求され、かたやライブハウスでは盛大に騒ぐことが期待されているところに注目してみたいのだ。つまり、公演の質や音楽の出来ぐあいを決定づける要因には「会場の性格」が少なからず関与しているはずであり、「どういう質の観客が集まるか」は、それが「どういう質の会場で行われるか」にかなりの面で左右されている——と考えることはできないだろうか。
たぶん、この種のことをもっとも気にしているのは、他でもないコンサートの主催者だろう。彼らは会場アンケートはじめネット上のほとんど感情的な感想群にも絶えず目を配っているはずだ。かりに個人ブログやSNS、または掲示板などの書き込みに「一部の客が騒がしかった。全くけしからん」あるいは「なんで怒られなきゃならないの〜エーン >_<」というたぐいの声があげられ、その量が一定の閾値を越えるようになれば、次回以降の会場選定を考え直さざるを得なくなる。端的に商売上の死活問題だからである(それでも客筋を完全に読み切ることなんて不可能なんだろうけど)。
「観客」について考える際に「会場」が気になりだしたのは、最近とても面白い本を読んだからであります。…と、ようやく本題に入れるぞっと(笑)。

●映画館と観客の文化史
加藤幹郎著/中公新書 1854/2006年7月初版
ISBN4-12-101854-0
本書に唯一の、そして最大の欠点があるとすればそれは索引がないことだろう。本書のような、のちのち何度も参照したいと思わされる本には、やはり索引はなくてはならないものだ。どうして日本の出版社は索引をおろそかにしてしまうのかさっぱり不可解なのだが、これはかなり根の深い文化的伝統なんだろうか——おっと、これは余談。
<本書は日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論となる(「あとがき」p292)>と著者が自負するように、これまでほとんど顧みられることのなかった「映画はどのようにして上映され、どういう風に観られてきたのか」について、興味深いエピソードを随所に散りばめつつ紹介している本だ。
なによりも標題が「映画と観客」ではなく「映画館と観客」である点がすばらしい。なにせこれまで映画館そのもののことなんて深く考えたことがなかったから、このタイトルを本屋で見かけたときには不意を衝かれたようだった。そう言われてみれば、なるほど映画というソフトウェアの発展には、撮影キャメラや録音機器のようなハードウェアの技術革新も重要だろうが、所詮それらは制作側に関係のある話。エンドユーザー(いち観客)にとっては「映画館という名の上映装置」がもっとも身近なハードである以上、「映画館という名のユーザーインターフェイス」のありかたや成り立ちについて、もっと関心を持ってもおかしくないのである。そして、本書が詳しく論じているように、映画ソフトを観るためのハードウェア(とそのインターフェイス)は、おそろしく多彩な様相を呈している。
じっさい映画の歴史は、あまりにも長いあいだ作品と作家の歴史でありつづけてきた。映画史は観客と彼あるいは彼女がつどう映画館の歴史をあまりにも長いこと抑圧し、隠蔽してきた。映画館と観客の二項は映画史において必要不可欠な要素でありながら、語られることは希であった。観客と映画館とが映画作品を受容し、成立させる重要な二項である以上、映画館と観客を勘案することなしには隣接人文社会諸科学にとって有意義な映画史もまた成立しえないはずである。(「序章 理論的予備考察」p.24)著者のこの主張になるほどと膝を叩きたいのだが、しかし実のところ「<映画館と観客を勘案>した上での作品論や作家論」が具体的にどんな姿をとるものなのか、わたしの頭ではまだよくイメージできていないかもしれない。感覚的にはなんとなくわかる気がするものの、それを語ることばが整備されていない、というべきか。
シネマ・コンプレックスが主流になるまえ、封切館・二番館・三番館…と映画館に個性があった頃なら、その映画をどの館で見るかは、映画好きのこだわりのひとつでもあったかと思う。とくにマイナーな作品を多く上映する映画館などには監督のファンや俳優のファンと同じような意味で、その館固有のファンというのも数多く存在していたはずだ。
ただ、そういった言説はなかなか「大きなメディア」では語られにくかった。いわく○○座はシートが固いよね、○○館は改装してから音が良くなったねぇ…などというふうに、せいぜい仲間内の会話のなかで評判を言い合うのが関の山だったろう。「映画作品」ではなく「映画館」がテレビや新聞など大手メディアで取り上げられるのは、決まってその館が「存続の努力むなしくやむなく閉鎖してしまう時」だけだった。…あれは、要するに訃報なんですね。
実を申せば、わたしは映画をほとんど見ない。昨年(2006年)も、気になる作品がいくつかあったにもかかわらず、結局ただの一度も映画館に足を運ばなかった。昨年だけでなくここ数年、とくにシネ・コンが主流になってからはことに回数が減っている。チケットカウンターまで行ったものの、そこで引き返したことさえ何度かあるほどだ。だから本書の内容をきちんと受け止めるには経験が不足しているのだろうが、そんなわたしでも本書には、たとえば上に引いた部分をはじめハッとさせられる箇所がいくつもあり、そのたび文中の「映画」を「音楽」や「ダンス」などに置き換えて読んでいた。もうひとつつけくわえるなら本書は、逆になぜわたしがシネ・コンで映画を見なくなったのかを考えさせられる契機にもなった。もっとも、その答えは今のところまだよくわからない。シネ・コンにとくに苦手意識はないはずなんだが。
「映画館の話題」は現在でもブログや掲示板での話のネタになっているんだろうか。シネ・コン以降、上映館ごとの差異は以前にくらべずいぶん少なくなって、どこにいってもほぼ大差ない「映画体験」ができるようになったから(むろん同じシネ・コン内でもスクリーンの大小などの違いはあるけれど)、もうほとんど話題にされていないんじゃなかろうか。そしてそのおかげで、映画ファンはより純粋に、作品の中身のみを語ることに集中しているんじゃなかろうか。
ノイズを極力排し、対象とより直接的に結びつくことができるようになったという意味では、これは「進歩」と言っていいのだろう。少なくとも、近代的な鑑賞のしかたは、余計な雑音を挟まず「作品と一対一で向き合う」ことを理想としていたはずなのだから。
だが、そういう態度だけが本当に理想的であり、かつ正しいことなんだろうか——この項、もう一回だけ続きます。
2007 01 13 [booklearning] | permalink
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comments
遅くなりましたが、新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
楽しく読ませて頂きました。99年頃にチーフテンズが来日したときの渋谷公会堂で、アンコールで思わずたって拍手したら、後ろの人が困った顔で「座って下さい・・・」と。すっかりしぼんじゃいました。。
その兵庫県立芸術文化センターでも、ロックの公演ならご婦人方からの注意も入らなかったかも知れません。一部とはいえ、アイルランド音楽は黙って静かに聴くものという理解があるのは興味深いです。
それから、先日の戦争ポスターカタログの一般発売がはじまりました。『戦争の表象―東京大学情報学環所蔵第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスターコレクション』東京大学出版会、吉見俊哉(編集)。 (←アマゾンのリンクを貼ろうとしたのですが、異様に長くなったのでやめました。)
posted: 山本 (2007/01/18 10:14:29)
ご無沙汰しております〜。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
アイリッシュのコンサート会場で混乱が多いのは、観客の中にアコースティック/ヒーリング(含古楽/クラシック)方面から入った人と、フォーク/ロック(含プログレ)方面からきた人が混在しているのがそもそもの原因かもしれませんね。
なんにせよジャンルごとに「聴き方の流儀が違う」ということ自体がとても興味深かったりします。日本人ってそういうトコロやたら細分化したがる癖があるようで、「○○道△△流□□派」みたいな感じというか(笑)。
戦争ポスター本、一般発売おめでとうございます。表紙デザインが実にいいですねぇ。
posted: とんがりやま (2007/01/18 17:27:38)