« 「観客」考(2) | 最新記事 | 天皇の居間 »
「観客」考(3)
すでに述べたように、加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書 1854/2006年7月初版/ISBN4-12-101854-0)を、わたしは「映画」だけに限定せずに読んだ。他の表現ジャンルについても、同じような問題はあるんじゃなかろうかと、あれこれ妄想を膨らませながらページをめくっていたのだ。おそらくそういう読み方は、著者があらかじめ意図していたものとはずいぶんかけ離れてしまっているのだろうけど。
たとえば小説やマンガはどうだろう。雑誌連載をリアルタイムで追っていくのと、単行本でまとめて読むのと、文庫化されてから読むのと、さらにいえばネットで読む(たとえば青空文庫など)のとでは、作品の受け止め方に違いがあるんじゃないか。今だとネット発→書籍化というのも多いので、かならずしもアナログ→デジタルという一方通行でもなくなってきている。ここでもソフトを閲覧するためのハードウェア(とそのインターフェイス)の多様性は顕著だ。
そして、作品の内容自体に変わりがなくても、それを収めている器というか媒体というか、要するにインターフェイスが変われば、受け止め方に違いがでてくると考えてもおかしくないはずだ。たとえ同じ「書籍」という器でも、四六判と文庫判ではまた違ってくるだろうし、ソフトカバーとハードカバーでは、別々のメッセージを読者に与えているはずだ(だからこそ装丁という仕事が必要なんですね)。にもかかわらず、今までは「中身は同じだから」という理由で、器の違い・インターフェイスの違いについてはあまり深く考えないようにしていただけに過ぎなかったのではないか。
前回の最後に書いたような「ノイズを排して、純粋に作品と向きあうこと」が「正しい鑑賞の仕方」という立場をとるならば、インターフェイスを意識することはどちらかというと邪道だろう。しかし現実には、わたしたちは器が変わるたびに新鮮な気持ちで作品を読み直している。そのコンテンツをくるむパッケージが変わるだけで、なにか新しい魅力が付加されたような気にもなってしまうのだ。だからこそ出版社は同じ小説や漫画をさまざまな判型でくりかえし出版するのだし、対するマニアは装丁違い・判型違いを全部買いそろえたりもするのである。あるいはひとつの映画をシネ・コンで観、テレビ放映で観、さらにDVDも買うのである。このとき、まったく同じ作品を観たり読んだりしているつもりでいて、しかし、実際にはその都度ぜんぶ違う体験をしているはずだ。本人がどこまで意識しているかは別にして。
それでも、映画や小説、漫画などは、たとえ器が変わろうともコンテンツそれ自体はとりあえず変化しない。変化があるとすれば読み手(観客)がわの問題である。しかしライヴ・パフォーマンスともなると、その変化は観客のみならず、演者がわにもダイレクトに作用するのではないか。つまりインターフェイスの違いがコンテンツそのものにも直接的・即時的に影響をおよぼす可能性があるのではないか。
ここで再び「観客」考(1)の冒頭に書いた、兵庫県立芸術文化センターでの一件に戻る。あの「事件」は、「ルナサの音楽はこうやって楽しむものだ」という音楽の内容に沿った観客と、「このホールではお行儀よく聴くものだ」という会場の形式に立った観客がまともにぶつかってしまったことによる悲劇である。そしてたぶん、今のところこういうことに一方的な正解はない。観客の割合として前者が多ければ、場所がどこであろうと大盛り上がり大会になっただろうし、後者が多い公演だったら、どれほど圧巻の演奏を繰り広げようと(少なくとも表面上は)おとなしい拍手しか返ってこなかったかもしれない。観客は「会場という器/インターフェイス」に簡単に左右されやすいのである。
当のパフォーマーにとってこの辺の問題はどうなんだろうな。人それぞれでもあり演奏する音楽次第でもあるんだろうが、どちらがやりやすいやりにくいということもなく、TPOにあわせてどこでも/どのようにでも演るよ、というのがおそらく現代の「プロ」に求められる資質なんだろう。そうして、どんな条件下で演ろうが、いつでもある一定以上の品質を維持できるのが「プロ中のプロ」と呼ばれるのかもしれない。
もちろんどんなに台本通りに進行していても、ライヴにはライヴならではの一回性・ハプニング性はつきものだ。しかし、そういう事態が出やすいジャンル/出にくいジャンルというのは確かにある。私見では、テレビでの露出が多いジャンル(歌謡曲方面とか)ほどパフォーマンスが固定化されやすい。そこにほんの少しだけ「テレビじゃ見られないここだけの芸」(その芸も毎回同じなのだが)をスパイスのように振りかければ、パッケージされたショーとしては必要十分だ。そしてそれ以上の逸脱は、観客の誰ひとり望んでいないことだろう。生身のパフォーマーが固定されたパフォーマンスを模倣する事態。こういうのは、さしずめ「ライヴ・パフォーマンスの映画化」とでも言うのだろうか。一方で、毎回かならず何らかのハプニング(それも、常に観客の予想を大きく超えるような)が期待されるジャンル/演者もいて…うーん、ここで「ジャンル」を持ち出してしまうと話がややこしくなりすぎるのかな。いずれにせよ変数がひとつ増えるだけで、事態が猛烈に複雑化することには間違いないな。
* * *
「映画館—(映画作品)—観客」についての本であるにもかかわらず、読みながらわたしは「演奏会—(演奏)—聴衆」やその他の事例について考えをめぐらしていた。単にめぐらしていただけでとくにまとまった結論などないし、思考対象が広がりすぎて余計な混乱を起こしつつもある。もとより条件がいろいろ異なるから、一概に決めつけることなどとうてい無理なのだ。しかし、こういうふうにいろいろ触発されるというのは良書である証拠でもありましょう。少し時間をおいて再読三読してみたい。
もうひとつ「美術館—(作品)—鑑賞者」の関係もかなり面白そうなんだけど、現在わたしの頭はそうとう沸騰してしまっているので、いつか別の機会にでも。今回はとりあえずここまで…どっとはらい。
2007 01 15 [booklearning] | permalink Tweet
「booklearning」カテゴリの記事
- 中川学さんのトークイベント(2018.07.16)
- 《モダン・エイジの芸術史》参考文献(2009.08.09)
- ある日の本棚・2015(2015.11.28)
- 1913(2015.02.22)
- [Book]ロトチェンコとソヴィエト文化の建設(2015.01.12)