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神話は続くよどこまでも——《ラーマーヤナ》
●ラーマーヤナ1 蒼の皇子(上)
ISBN4-591-09306-9/2006年06月
●ラーマーヤナ2 蒼の皇子(下)
ISBN4-591-09315-8/2006年06月
●ラーマーヤナ3 聖都決戦(上)
ISBN4-591-09468-5/2006年10月
●ラーマーヤナ4 聖都決戦(下)
ISBN4-591-09469-3/2006年10月
●ラーマーヤナ5 樹海の妖魔(上)
ISBN978-4-591-09588-1/2007年01月
●ラーマーヤナ6 樹海の妖魔(下)
ISBN978-4-591-09589-8/2007年01月
アショーカ・K・バンカー著/大嶋豊訳/ポプラ社刊
装丁:荻窪祐司
インド・ファンタジー《ラーマーヤナ》日本語版が、とりあえず6冊、出そろいました。「とりあえず」と書いたのは、これで完結ではないからです。原著はこの倍、つまり12冊分あるんだそうで、ということは「物語」はまだぜんたいの半分まできたところ。マラソンで言えばようやく折り返し地点に達したところで、日本語版の刊行はお休みになるとのことです。
これはあんまりだ。
ほうほうとうなづき、へえぇとおどろき、ひゃあとのけぞり、ぐふふとわらいながら、ページを繰る手ももどかしく、先へ先へと急いでいたあの時間はなんだったんだ。戦争の結末を見極め、主人公の運命を見定め、王国の平和を見届けるためではなかったのか。それなのに、第6巻の残りページがあとわずかになっても「物語」はいっこうにおさまる気配をみせず、それどころかますます広がっていくではないか。
まるで、テーブルいっぱいに並べられたおいしそうな料理にひとくちふたくち箸をつけたとたん、いっせいに皿をとりあげられた気分なんであります。
もう一度言う、これではあんまりだ。
チトラクータ丘のたたかいはどう決するのか。ラーマはアナスヤーの弓矢をどこで使うつもりなのか。眠れる巨人クンバカルナはいつ目覚めるのか。ラーヴァナはどうやって復活するのか。追放されたカイケーイーは戻ってくるのか。カウサリヤーは主のいない王国を守ることができるのか。ベジュー隊長のその後は。
なにもかもがぽんと放り出されたまま、しかし読者であるわたしはしぶしぶ本を閉じざるを得ません。第6巻の奥付のあと、「物語」の行く末を暗示させるページは1ページたりとも残されていないのですから。
「何というご都合主義だ」
ラーマはつぶやいた。(『樹海の妖魔』(上)p.237)
それにしても。と、あらためて思います。ここの登場人物たちはどうしてかくも自分たちの「物語」に自覚的なんでしょうか(それはこのファンタジー小説のはじめからそうなのです。以前書いた1、2巻の感想文を参照のこと)。わたしは上のセリフを読んで、思わず笑ってしまいました。ご都合主義。そう、ファンタジィほどご都合主義の最たるものも、他にないかもしれません。そういわれてみれば、超自然的現象が山ほど起こるこの小説世界の法則に照らし合わせても、腑に落ちないことがたくさんあります。アヨーディヤーからミティラーまで、援軍の派遣にそれなりの日数がかかるはずの距離があるはずなのに、<攻囲の日>のすぐ翌日にダシャラタやカウサリヤーの一行が聖都を訪れ、盛大な結婚式に参列するのはあまりに不自然ではないか。あるいは、梵天兵器を使ったため<並の人間>に戻ってしまったはずのラーマが、パラシュラーマの斧に微動だにしなかったのはなぜなのか。
まだわたしがこの小説をよく読み込めていないだけのことに過ぎないのかもしれませんが、他にもそういう箇所はあります。
しかし、それは、ぜんたいからすればささいなことなんですね。神は細部に宿るといい、「物語」の醍醐味はディテールを追ってこそとするならば、読むべき細部はそこではなく、もっと別のところにあるのでしょう。
それは、<ダンダカ・ヴァナ>や<ヴァースキの穴>周辺をはじめとする重厚な森の描写(わたしはアヨーディヤーやミティラーの都会の描写よりもこちらの方が断然好きです)であり、超人的な殺陣を繰り広げるラーマの身体動作の描き方であり、カウサリヤーをはじめとする女たちとダシャラタ以下男たちとの愛についての問答であり、我が子の幸福を願う親の心情であり、導師や梵仙が説く己の運命との向き合いかたであるはずです。そして、どんなさりげないセリフも、どんなわずかな風景描写も、みなこの大きな「物語」をささえる重要な1ピースとなっているのがよくわかります。
よくもまぁここまで、この大草原のすみずみを言葉で埋め尽くしたことよ。
第1巻から第6巻までをつづけざまに読み、少しふらつき気味の頭で思うことは、このひとことに尽きます。「物語」というものは、かくもひとを熱中させるものなのか。
「物語」に熱中しているのは、たんに読者であるわたしのことではなく、これを延々と書きつづってきた作者のことでもありません。登場人物のひとりひとり——ラーマであり、ラーヴァナであり、カウサリヤーであり、シーターであり——こそがまず他の誰よりも「物語」を夢中に生きていること、そうしてその「物語」はきのう今日生まれたものではなく、途方もない昔から、数かぎりないひとたちの口によって語り継がれてきたものであるということ。わたしはそのことに身震いします(であるなら、この「物語」にはどこまでいっても「結末」は無いのかもしれませんが——《神話》は続くよどこまでも)。
…以上、小説好きのかたからすれば「何を今さら」な感想であることでしょう。ひとは空気や水やパンと同じくらいに「物語」がなければ生きていけない生き物であることなんて、今さら得々と語るまでのことでもありません。
実を申せば、わたしはめったに小説を読みません。映画もさほど見ません。漫画も、最近は長編がどんどん苦手になっていて、せいぜい3〜4巻で終わるようなごく短いものが中心になっています。それは何故なのか、あまりよく考えたことはなかったのですが、どうやらあまりに長い「物語」にかかわり、それに深く囚われすぎてしまうことをひどく警戒しているからなのかもしれません——しかし、ことこの「物語」に関しては、もうとっくに手遅れになってしまっています。内藤陳さんのかの名セリフではありませんが、「読まずに死ねるか!」なんであります。
続きを! もっと続きを!
2007 01 29 [booklearning] | permalink Tweet
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comments
ラトナカールにひっついて、わたしもようやっとチトラクータの丘まで来ました。いざ渡河せん!と思ったのにぃ。ま、『指輪物語』の翻訳も3年越しでの出版でしたから(中学〜高校にかけて。あ、年がばれる)、気長に待ちます。
posted: 熊谷 (2007/02/01 19:46:00)
コメントありがとうございます。言われてみればサーガもの(っていうのかな)は刊行のスパンが長期にわたることが多かったですよね。昔はそれでも読者はちゃんと待っていたんでしょうけど、昨今の出版事情はどうなんでしょうねぇ。
ともあれ、年に一冊ずつでもいいので、私も気長に待つことにします。
posted: とんがりやま (2007/02/01 23:04:44)
ラトナカールは次巻『神猿の軍勢(仮)』であっと驚く大変身をとげます。
長い作品は刊行に時間がかかるのは確かですが、訳者がと二人とも途中で死亡することもしばしばです。『アラビアン・ナイト』(東洋文庫)、『西遊記』(岩波文庫)、『ローマ帝国衰亡史』(筑摩書房)は後継に人を得ていますが、『ラーマーヤナ』(東洋文庫)と『マハーバーラタ』(ちくま文庫)の原典訳はそれっきりになってしまいました(『マハーバーラタ』の英語版からの編訳(三一書房)は完結)。なので、とにかく訳文だけでも完成を目指します。
ただ、今回の場合、訳者の健康は別として(爆)、売行きの方が問題なのでありまして、そこが何とももどかしいです。
posted: おおしま (2007/02/04 21:14:18)
時間がない時に、こういう面白い小説を紹介されてしまうと、非常にツライ・・・(笑)。テスト前なのに、漫画を読んでしまう心境とでもいうんでしょうか。
拙ブログでもちょっと書いたのですが、この面白い本が売れてないって言うのは、やっぱり売り方だろうなあ、と思ってしまいます。なんてもったいないんだろう。
もちろん一冊買いました。
posted: dunkel (2007/02/20 7:13:37)
そうそう、忙しいときほど本や漫画に逃避したくなりますね(笑)。
>やっぱり売り方だろうなあ、と思ってしまいます。
出版に詳しくない者が書いても全く説得力ないですが、長編モノになればなるほど、出版社にとってリスクがべらぼうに大きくなるのかなあという気が。そういえばあのハリポタでさえ、毎回いろいろ騒動ですもんねえ。
posted: とんがりやま (2007/02/20 20:15:13)