« 出版が文化であるならば | 最新記事 | [book]:世界は音楽でできている »

[book]:活字のない印刷屋

 

Kathuji_no_nai_insathuya

 
●活字のない印刷屋—デジタルとITと—
 中西秀彦著/印刷学会出版部/2006年9月初版
 ISBN4-87085-185-7
 カバーデザイン:大貫伸樹
 
 前回のエントリを書いて、というよりコメント欄でのやりとりが大いに刺激になって(みなさんありがとうございます)、近所の書店のデザイン/印刷関係の棚を覗きに出かけたらたまたま本書を見つけたので買ってきた。前回のエントリで触れた『活字が消えた日』の、本書はいわば後日談である。
 
 
 わたしはかつて印刷会社に勤めていたことがあって、本格的なDTP時代になる以前の印刷工場の雰囲気をかろうじて覚えている。そこは版下・製版から刷版、校正刷り・本機刷り、断裁までのひととおりの工程を社内でこなしていた。部署が違うので実際にわたしが機械を操作していたわけではないが、印刷インキの香りはなつかしい記憶のひとつでもある。
 この印刷会社はバブル経済終了後、本格的なDTPに乗り切れないまま終焉を迎えた。
 わたし自身は会社が傾いていく以前にそこを離れたから、わたしの記憶の中の「印刷会社」とは、写植や紙焼きを切り貼りした版下台紙とブローニー判や4×5判のポジフィルムをドラムスキャナで4色分解しレタッチする製版フィルムが飛び交う世界であって、その時点で時間が止まっている。
 
 じゃあ現在の印刷会社はどうよ、というところで、本書はわたしにとって実に興味深い内容だった。
 
 前回も書いたが、この本の著者は京都の老舗印刷会社の専務である。Nifty-Serveのいまはなきフォーラムのひとつ、FDTPのシスオペをされていた方でもある(わたしはそのころすでにニフティの会員だったけど、DTPフォーラムにはほとんど足を踏み入れていない。当時のわたしが入り浸っていたのはワールドミュージック方面ばかりだった…おっと余談)。活版印刷の優秀な職人さんを多数抱え、学術系に強かったその印刷会社が、活字を捨てDTPに切り替える際の顛末を描いたのが前回ご紹介した『活字が消えた日』だが、本書はそれから10年後の、同社の「いま」を描いている。
 とはいえ本書は一編の物語ではなく、印刷学会出版部の専門誌『印刷雑誌』に掲載された短いコラムの集成だ。なので、読み応えという点では前作とは比べものにならないし、また掲載誌が掲載誌なので、印刷に興味がない(あるいは印刷の現場を知らない)人にも面白く読めるかどうかはわからない。いちおう専門用語には解説が附されているけれども、用語を実感として理解できるかどうかはわからない。その点、それなりに読み手を選ぶ本だとは思う。
 わたしは、前述したようにDTP以前の印刷の世界には少しだけ触れたこともあるので、この本を「わたしの知らないそれからの10年」という意味合いで面白く読んだ。そうして思ったのは、印刷会社は——わたしの知る印刷会社がかつてそうであったように——今でも大変だなあ、ということ。いや、今から思えばあの頃はまだまだ牧歌的だったのかもしれない。
 
 
 本書には2002年頃から2005年頃までに書かれたコラムが載っているが、すでにえ? と思うような記述もある。「電算写植が終わろうとしている」という書き出しでおや、と思ってみるとそれは2002年の記事で、追記として「2003年には本当に終わってしまいました」などと書かれている。同じように、2002年の時点ではまだわずかながら稼働していたフィルム製版設備も、現在はとっくに廃棄・整理しているという。時の流れが本当に速い。
 著者は経営者だから、最新システムの動向に常にアンテナを巡らすのはもちろんのこと、導入コストから社内の体制までも視野に入れていなければならず、一方でインターネットの普及にともなう印刷物そのものの減少という事態からも逃げることができない。飄々とした軽い文体なので気づきにくいかもだけど、現実は胃の痛くなるような日々の連続だろうと想像する。

 * * *
 
 やれ新聞が読まれなくなっただのテレビの視聴率が落ちただの、あるいはCDの売上が振るわないだのというとき、なぜかパソコンやインターネットのせいにされがちな昨今だが、たとえウェブサイトやブログが全盛になり、家庭用プリンタが浸透した時代であっても、本書の著者は印刷業界の不況を他人のせいなどにはしない。そんなバカバカしいことは口にしないのがこの人の矜恃だろう。そして、どんな時代でも印刷会社の生き残る道は必ずあるはずだと信じている。このポジティブさが本書の魅力である。
 
 若干長くなるが、本書「印刷の王道」という項から一部引用させていただく。話は、印刷業界のあまりの急激な変化に不安をいだいた若い社員が、このままオフセットの職人として続けていって大丈夫なのか、と相談に来たというもの。著者はしばらく考えてから、こう答える。

「オフセット印刷もいつかはなくなるかもしれない。(中略)あるいはさらに未来になれば紙の上の印刷がなくなるかもしれない。
 だからといって、今オフセット印刷に打ち込んで損かというとそれはありえない。確かに活版の時の職人は電算写植が普及し、オフセット印刷がすべてを覆い尽くしていったとき長年覚えた技法は無駄になったようにみえたかもしれない。だが、活版を極めた職人こそが電算時代に活躍してくれた。彼らは何がいい組版で何が悪い組版かを体で知っていたからだ。その目が電算時代に生きた。それが印刷職人の王道というものだ。
 今、あなたはオフセットを極めてくれればいい。オフセットを極めることで何がいい印刷で何が悪い印刷かを知るだろう。オンデマンド時代になっても、インターネットの画面の時代になっても、それを見極めることのできる目は必要だ。クライアントの一〇倍の正確さをもった目が必要なのだ。その目をもった職人のいる会社はどんな時代になってもいい仕事をし続ける。(後略)(pp.155-156)」

 いい言葉だと思う。

2007 04 12 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

「design conscious」カテゴリの記事

comments

 職人の本質をついた言葉ですね。こういう人と仕事ができるのはしあわせでしょう。世の中を支えているのはこういう言葉をはける人たちと、はかせる人たちなんだなあ、きっと。

 それにしても、デジタルになればなるほどアナログ技術の重要性が増す、のは、ささやかながら実感があります。出たばかりの本で、中沢新一の『ミクロコスモス』。四季社という新しい会社の本ですが、「仮フランス装」という広告だけで矢も立てもたまらずに注文しちまいましたが、これがもう紙、書体、インクの色、レイアウトなどなど、隅々にまで神経の行届いた造りで、プロ=職人の仕事です。きわめてます。中沢新一だけだったら図書館で借りてるところですが(^_-)。凄いのは奥付に編集担当者、装丁者はもちろん、校正者の名前まで載せている(史上初!?)。もっと凄いのは、持って頁をめくると思わず読んでしまう。これぞ、読書の快楽。中身だけではないのです。デジタル時代の書評はもっと「造り」にも触れるべし。

 中西氏の言葉に帰って自分に引きつけて考えれば、何が良い翻訳か悪い翻訳か、あるいは何が良い文章で何が悪い文章か、体でわかるようになりたいものです。印刷のようなモノではないから、誰が見ても明らかというわけにはいきませんが、しかし、違いはやはりある。もっと読まなくちゃ。

posted: おおしま (2007/04/13 9:08:30)

校正者のクレジットはときどき見ますよ。ぼくは組み版や印刷所の営業、印刷現場などの担当氏も載せたいと思うんです。CDなんてケータリングの人まで載ってるんだし。会社員として仕事してる人の場合は微妙なんですけどね。

posted: Bee'sWing (2007/04/14 14:36:42)

 

copyright ©とんがりやま:since 2003