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歌の伝播力

 

Hoppou

●北方民族 歌の旅
 谷本一之著/北海道新聞社/2006年12月刊
 ISBN4-89453-398-7
 装丁:佐々木正男(エディアワークス)
 
 著者は1950年代末ごろからのアイヌ伝統音楽研究を皮切りに、以降アラスカやグリーンランド、シベリアなど北極圏の伝統芸能、およびハンガリーやロマの音楽を長年にわたり研究している方だという。本書はさまざまな新聞や雑誌に寄稿した文章を集めて再構成したもので、短めのものが多いこともあって気軽に読みやすい。イヌイットやシベリアの伝統音楽に関する一般書なんてまず見かけないだけに非常に貴重だし、あれこれ想像を広げながら読んでいると本当にワクワクする。
 
 
 本書から「イヌイットのスクエアダンス」と題された一文をご紹介したい(pp.70〜73)。札幌交響楽団定期演奏会のプログラムに書かれた、1997年の文章だ(下の引用文は、若干前後の順を入れ替えていることをお断りしておく)。
 
 一九八七年、カナダ東北部メルビル半島突端。北緯六九度二三分、人口七百人のイグルーリク村での私の元旦は、飲み疲れ、踊り疲れて、居候をきめこんでいるイヌイット(エスキモー)の人の家で、ただただ眠りほうけた一日だった。

 著者はイヌイットの村での大晦日から元旦にかけての一夜を紹介している。教会でのミサが終わり、時計が12時を告げると誰彼ともなく銃を空に向けぶっぱなし、スノーモービルが漆黒の氷の海を走り回る。集会所ではダンスが始まり、冷徹な外気とは対照的に、室内は半袖シャツでも大汗をかくほどの熱気につつまれる——。
 ここで彼らが踊っていたダンスは「スクエア・ダンス」だったと著者は記している。
 先に到着した人々は、コンサルティーナ(小さいアコーディオン、スコットランド地方の楽器)を中心にしたアンサンブルの伴奏で、スクエアダンスを踊っている。

 「スクエア・ダンス」は米国生まれのフォークダンスだが、そのルーツはヨーロッパに求められる(よく挙げられるのは英国のコントラダンスやフランスのカドリーユなど。アイリッシュ・セット・ダンスもその末裔のひとつだ)。
 
 このとき著者が目撃したスクエアダンスが、具体的にどのようなものだったかはここからはわからないが、concertina(コンサーティーナ)を中心としたアンサンブル、という記述が気になる。使用楽器から想像するに、演奏されていた音楽がケルト圏のメロディ/リズムであってもあかしくない(なお、著者は「スコットランドの楽器」としているが、この楽器はイングランド人が創ったものだったはず。そこからドイツ式他いくつかのバリエーションも生まれてはいるけれど、“スコテッィシュ・コンサーティーナ”などという楽器は聞いたことがない。勝手な想像だけど、この地に楽器を持ち込んだのはスコットランドからカナダに移民してきた人々で、ゆえにこの村ではスコットランドの楽器だということになったんじゃなかろうか)。いずれにせよコンサーティーナでエスキモーの伝統音楽を奏でていたのではないだろう。
 イヌイットの村での、元旦を迎えるこの風習を、著者はキリスト教が入ってきてからのものではないかと推測している。この地に宣教師がやってきたのは1920年代。長くてもざっと80年ほどの<伝統>だ。
 
 
 極東の島国に住むわれわれから見ればとんでもない地の果て、辺境にあるように見える小さな村(向こうからすれば日本がこの世の果てだ)。なんとなく、こういう土地では人々は数百年ものあいだずっと変わらず伝統を守った暮らしをしている、などと思い込んでしまいがちだが(テレビの紀行番組なんかではそういう風な安直な表現をよく耳にする)、実際はそんな単純なものではない、と著者は述べる。
こういうところでの私のもっぱらの仕事は「古くから」歌われ続けてきている歌を聴かせてもらい録音することであるが、どれが古くてどれが新しいのか迷うことが多い。歌う人が、この歌はずっと昔の歌なんだと強調したとしても。

 いわゆる「伝統音楽」に関心を寄せる人なら、こういう著者の述懐はよくわかるのではないだろうか。
 このくだりを読んでわたしが面白く思ったのは、歌い手が<ずっと昔の歌なんだと強調し>ているところである。音楽、とくに歌には、いちど覚えてしまったら何故かそれが<ずっと昔>から自分たちのものだったと思わせてしまうような、不思議な力があるんじゃなかろうか。
 
 
 著者はここで話題を変える。今度は1986年、アラスカ北端にあるウァンライトという小さな村での体験だ。エスキモーの鯨猟にまつわる歌や踊りを採取していくうち、ひとつだけ、メロディーの動きが他の歌とどこか異なるものに出会ったというのである。誰に聞いても要領を得なかったが、村を離れる最後の日にその謎が解ける。70年前にアラスカ州がトナカイの遊牧を計画したことがあり、この土地にノルウェーからサーミ人を招いたというのである。この歌はそのときに彼が歌ったノルウェーのメロディーだった、というわけだ。
 アラスカのエスキモーとノルウェーのサーミ、これだけ離れた距離に住む両者にこんな歌のつながりがあったとはなかなか想像しにくい。肝心のトナカイ遊牧は、ここでは定着しなかったようである。

 こう著者は結んでいる。生活に直接関係するはずの遊牧技術は定着せず、そうではないはずの歌が残ったという、たいへん面白いエピソードである。面白いと思うと同時に、歌の力の凄みを感じざるを得ない逸話でもある。まるでインフルエンザ・ウイルスのように——と書くとなんだか喩えが適切ではないかもしれないが、歌の伝播力とは、そしてその生命力とは、本来かくも強力なものなのか。
 
 
 著者の恩師である知里真志保博士はアイヌの歌についてこう語ったと、本書には記されている。
「そこでは歌は楽しみのためにあるのではなく、生きるための真剣な努力なのである」(p.216)

 いろいろと考えさせられる言葉である。
 

2007 04 24 [face the music] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

 この方には、もう一歩、突っ込んで欲しいところです。
 「楽しむことこそが、生きるための真剣な努力なのだ」と。

posted: おおしま (2007/04/24 22:22:46)

 コメントありがとうございます。
 
 学生時代、NHKが出版した『アイヌ伝統音楽』(1965年刊)という大著を大学の図書館で借りてみたことがあるんですが(たしかカセットテープかレコードつきだったはず)そのときはまったく歯が立たず、アイヌはよくわかんねーや、とそれきりになっていたんですが、谷本さんはそのときのプロジェクトに関わっておられた方だということをこの本で知りました。
 今ならもう少し理解力がついているかなあ。機会があれば再挑戦してみたいんですが。
 
 本文末尾に引用した言葉をどう解釈するかは、自分なりにもう少し考えてみたいと思います。

posted: とんがりやま (2007/04/24 23:57:34)

 

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