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若冲の「白」

●開基足利義満六〇〇年忌記念 若冲展
相国寺承天閣美術館 2007年05月13日〜06月03日
[展覧会図録]
監修:辻惟雄、小林忠
編集:相国寺承天閣美術館、日本経済新聞社
発行:日本経済新聞社
※装丁者名記載なし

メインディッシュの《動植綵絵》は第二展示室で、相国寺所蔵の《釈迦三尊像》とあわせて三十三幅の絢爛な絵画が並ぶ壮観なものだった。こちらがカラリスト・若冲の部屋とするなら第一室はモノクロームの部屋で、鹿苑寺金閣寺の障壁画をはじめ若冲作品および相国寺ゆかりの品々の展示となっている。
いま、<カラリスト・若冲>と書いたけれども、一般的な若冲のイメージというとカラフルでこってりした、それでいて病的なまでに精密に描かれた鳥や魚や花の絵が思い浮かぶのではないだろうか。たしかに《動植綵絵》などその最たるもので、およそ淡泊でおとなしいいわゆる<日本画>のイメージを完全に打ち砕く、コテコテの絵画群ではある。
だが、わたしは若冲ときくと、まず彼の「白」を連想する。この画家ほど、白色を白色として活用した人もそう多くはないんじゃなかろうかとさえ思う。
じっさい、全三十幅の《動植綵絵》シリーズでは、白絵の具(胡粉)が実に効果的に使われているさまを、これでもかと見せつけられるのである。それは梅や牡丹の花びらであったり、孔雀や白鳳の羽根であったり、あるいは雀の群れの中の一羽であったり、枯れ枝に積もった雪であったりするのだが、この作家は要するに「白」が描きたかったんじゃないかと思うくらい、どの絵にも白絵の具が多用されている。それも、単に対象物の白さをあらわす記号的な使い方ではない。白をひとつの色として、積極的に塗り重ねているのである。
洋画の水彩画、あるいは中国や日本の水墨画などでは、下地の素材色がそのまま「白」とされることが多い。たとえば烏を描きたければ全身を濃い墨で塗ってしまうけれども、白鳥や白鷺を描くなら、その輪郭だけをとって本体は塗らずに残しておく。これで「白」を表現する。言ってみれば「引き算の白」である。「余白」という言葉があるが、禅画的な発想でいえば「余白」は「一切空」に通じるものでもあるだろう。描かないことによってすべてをあらわす、という理屈である。
若冲は、その白を「足し算」でもって表現する。《動植綵絵》はいずれも絹本着色だが、地色は中間トーンのベージュっぽいグレーで、そこに濃い墨や群青や緑の顔料を使って絵が描かれる。それら濃い色の顔料と同じ意味合いで、白(胡粉)が使用される。《動植綵絵》における「白」は決して「余白」なのではなく、徹底して意識的に描かれた「白」なのである。
技術的にみると、胡粉はそのままでは剥落しやすいのだそうで、
若冲はまず金泥や黄土を用い、その上から胡粉で羽毛の一本一本を微細に描き込むという凝った技法で表現している。これにより、羽毛の隙間に覗く金泥が光を照り返して輝き、実際の鳥の羽毛のような光沢を描出しているのである。(本書p.174)という独創的な技法を使っている。こういうテクニックは若冲ならではなのだろうし、じっさいその表現は驚異という他ない見事な効果を生んでいる。
先に述べたように、本展の展示はふたつの部屋に分かれていて、<若冲の白>が存分に堪能できる部屋は後半の方である。前半の第一展示室は水墨画なので、「足し算の白」ではなく「引き算の白」の方である。
だが、わたしは、思い切って展示の順を逆にしても面白かったのではないかと思っている(観客が多くなければ第二室から第一室へ逆戻りも可能なのだが)。カラリスト・若冲の「白」を思い切り見せつけたあとで、では水墨画という技法の中で彼はその「白」をどう描いたか、を考える方が面白いのではないだろうか。現に、図録ではそういう順序で編集されているのである(ま、単に、美味しいところを最初に持ってこようというだけの意図なのかもしれないけれども)。

この作品に限らず展示作品すべてがそうなのだが、作品はガラスケースの向こうにあって、作家の筆遣いを間近でしげしげと眺めることはできない。わたしは単眼鏡を使って細部を観察していたのだけれども、芭蕉の葉のごく一部分の描き方におや、と思った。ひょっとして、画家はここでわずかながら<白絵の具>を使ってはいないだろうか。
普通、水墨画でそれは考えられない。しかしそのときのわたしの目には、まるで漫画家がはみ出たベタをホワイトで修正しているような、そういう部分があるように思えたのだ。もちろん若冲は修正するために白を使っているのではなく、芭蕉の葉それぞれをくっきりと浮かび上がらせるためなのだけれど。
しかしこれは、単にわたしの見間違いかもしれない。図録解説にはそういう言及はないし、帰宅してからあらためてカタログの図版を見直してもそういう風にはとても見えないからだ。会場内の照明は必要最小限に落としてあるし、作品とわたしのあいだにはガラスがあるだけでなくそれなりの距離もある。単眼鏡でズームアップしただけでは、ほんとうに「白絵の具」が使われているのかなんて判別しにくい。
常識的に考えると、おそらくわたしの見当違いなのだろう。けれども、たとえそうであっても、芭蕉の木の葉と葉のあいだをリズミカルに区切っていく「白」は魅力的である。そうして、この水墨画作品においても、若冲が本当に描きたかったのはこの「白い線」なんじゃないかと思ってしまうのである。
* * *
以下余談。
本展はひたすら待ち時間の長かった展覧会だったが、並んでいる最中、後ろにいた女の子ふたり組がこういう会話をしていた。
「いやー、じゃくちゅーんは人気あるんやねえ」
「そやね。さすがじゃくちゅーんやね」
どこぞのお笑いコンビか。
で、第二室に入って《動植綵絵》を目にした途端、彼女らは「かわいー」の連発である。ま、たしかに鸚鵡も鶏も魚も虫も、彼の描く生き物はみんな目がまん丸だしね。
よく気をつけていると、この「かわいい」という声は意外なほどあちこちで発せられている。老若男女問わず、といった感じだ。
そか。時代はすでにそうだったのか。ふーむ。
2007 05 21 [design conscious] | permalink
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