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厳しさと平明さ〜福田平八郎展

 

Heihachiro

●福田平八郎展
 京都 展 2007年04月24日〜06月03日 京都国立近代美術館
 名古屋展 2007年07月14日〜08月07日 松坂屋美術館
 
 【展覧会図録】
 監修:島田康寛
 編集:京都国立近代美術館、京都新聞COM
 発行:京都新聞社
 デザイン:大向務+坂本佳子+市川真莉子(大向デザイン事務所)
 
 福田平八郎(1892-1974)の描く絵は明るく、楽しい。およそ難解なところがなく、誰にでもすっと入り込んでいける平明さがある。堂々とそういう絵が描ける作家は、実は意外に少ないようにも思う。
 かれの作品の持つこうした特長は、いったいどこから来たのだろう。もちろん本人の持って生まれた性格や気質が大きいのだろうけれども、画家として考えた場合、やはり「徹底した眼のひと」という風に見るのがいちばんしっくりくる。要するに、あっけからんとリアリストなのである、と思うのだ。
 
Sazanami このひとの作品には、たとえば有名な『漣』(1932年、図版右)や『氷』(1955年)といった、「ほとんど抽象画じゃん」と思ってしまう作品が一方にあり、また片方には、1960年代中頃からの「まるでデザイン画やん」と言ってしまいたくなるほどの単純化された絵画群がある。
 「ほとんど」「まるで」なのではあるけれど、しかしそれらは決して抽象画でも図案画でもないところが面白いと、わたしは思う。このひとの描く絵は徹頭徹尾具象画であって、あくまでもリアリズムの産物なのだと思うのだ。
 
 
 「具象から抽象へ」というと、有名なものにモンドリアンの連作デッサンがある。具体的なリンゴの木のスケッチからはじまって、徐々に対象が単純化されてゆき、最後には+記号を散らしたような画面になっていく、あれだ。いかにも<抽象絵画の誕生の瞬間>(じゃあないんだけれども)っぽく、その過程が誰にでもわかりやすいので、美術史の教科書なんかにしばしば引用されている、あれだ。
 あれはちょいとばかしアレじゃないかとわたしは思うんだけど(アレって何やねん)、まあそれはともかく、同じようなことを福田もやっているわけである。本展ではかれの写生帖もいくつか公開されているが、なかでも『漣』や『氷』などのもとになった水面のスケッチはすごく面白かった。モンドリアンお呼びでないというか、もうスケッチからして「ほとんど抽象」「まるで図案」。<対象を徐々に単純化>なんてタルいことはやんないのである。
 
 作家が抽象画や図案画をどこまで意識していたのかは知らない。あくまで本展を観ただけのわたしの印象にすぎないんだけれども、このひとはたぶんそういうことはまったく思い浮かばなかったんじゃないだろうかという気がする。もちろん世の中に抽象画があることや、布地や包装紙にパターンをデザインする仕事が存在することを知らなかったわけではないだろうけど、そういうものと自分の絵を結びつける気はさらさらなかったような気がする。
 
 まあ、「作品をどう解するか・位置付けるか」なんて観客の勝手な視線が決めるもので、とある評論家が「なんて野蛮な絵だ、野獣だ!」と叫んだので「野獣派(フォービズム)」が生まれた…なんて落とし話のような逸話がしゃあしゃあとまかり通るくらい、いいかげんなものなんである(このとき「バカな絵だ!」とでも言ってたら「バカ派」なんてネーミングになってたのかな・笑)。作家は抽象画を描きたくて絵を描いているんじゃなく、自分にしか描けない絵を描きたいだけ、のはずだ。それをまわりが「野蛮な絵だから野獣派ね」「どう見ても抽象画だよね」「なんだ、図案画か」と言うのは自由だが、作家までがそれにつきあう義理はない。まあ、中には自分からすすんで自分の作品を説明したがる画家とか派閥(スクール)を作りたがる絵描きもいるようだけど。
 
 
 
 福田平八郎が平明でわかりやすいのは、たとえ一方に「ほとんど抽象画」に見える絵、もう一方に「まるで図案画」みたいな作品があっても、そのど真ん中に「リアリストの眼を持った福田平八郎」がどんと座っていて、まったくブレないからであると、わたしは思う。リアリズムをとことん追求した、その結果がたまたま抽象画や図案画、あるいは限りなくポップアート(たとえば『柿紅葉』1949年)のように見えるだけであって、本人がやっていることはずっと変わらないのである。その「変わらない」安心感こそが、このひとの絵の持つ「わかりやすさ」のおおもとになっているんじゃなかろうか。
 とはいえ、<まったくブレずに居続ける>というのは、実はもっとも難しいことだと思う。これはなにも福田が初期から晩年まで作家としてまるで成長していない、進歩がないということではなく、むしろその逆で、リアリズムを真摯に追求していったからこその作品の幅の広さなんだけれども、えてして凡人は結果だけを安易に得ようとして自分のポジションを見失い、ブレブレになってしまいがちなのだ。
 その点、このひとの<ブレのなさ>は敬服するほかない。作品の平明さとは裏腹に、おそらくとても己に厳しい人だったのではないかという気がする。
 
 

2007 05 23 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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comments

 むしろ「作家は描きたい絵を描いていたら、自分にしか描けない絵だった」のほうではないか、と思ったりしましたが、これは昨日原美術館のヘンリー・ダーガー展を見てきたせいかもしれません。

 それにしても、ブレずに信じたものを追いかけつづけるには、自分の力だけではどうにもなりません。美術にかぎらず、創作行為、表現行為はつまるところ憑依現象ではないか、とこれもダーガーの影響かも。

posted: おおしまゆたか (2007/05/23 8:53:54)

 

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