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忙殺日記

 
某月某日 『舞台芸術の世界 ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン』展(京都国立近代美術館)を観に行く。お目当てのバレエ・リュス関係はぜんたいの半分弱か。しかし意外に「のこり半分」がとても興味深かった。同時代のロシアの舞台美術資料をまとめてみるのがほとんど初めてだったからなおのこと新鮮。ところで、ともに20世紀はじめにごく短いあいだだけ花開いた「バレエ・リュス」と「ロシア・アバンギャルド」は、政治的・思想的には相対する関係にある。ディアギレフは自身の活動のスポンサーにロシア皇帝を頼っていたため、ロシア革命以後は急速にその勢いをなくしてしまう。激動の嵐に乗って登場するのがロシア・アバンギャルドなのだが、革命の熱気が収まるのと歩調をあわせて関係者が処刑されたりするなど、この前衛芸術運動もことごとく鎮火されてしまう。芸術家たちはインターナショナルを標榜し、世界中の労働者階級に向かってメッセージを投げかけたが、理念はともかく現実に創り出されたものは結局のところロシア国民向けにとどまった。「アバンギャルド」にわざわざ「ロシア」の名を冠せられるのはそういう理由だ(ちなみに「ロシア・アバンギャルド」なる用語は1970年代ごろに造られたものであり、当時の名称ではない)。一方、バレエ・リュスは当初からその名に「リュス(=ロシア)」とありながら、一度もロシア国内で公演をしたことがない。最後までロシア国民のために向けて創造されたことがなかった。バレエ・リュスが創りだしたものはあくまでパリやロンドンの観客向けに作られた“エキゾティックなロシア”なのだ。革命ロシアの言う“ブルジョワジー”の産物と言ってもいい。このように両者は徹底して相容れないはずなのだが、にもかかわらず、美学的にこの二者には太いつながりがあると感じた。それこそがスラブの血だと言っていいのかもしれないが。もっとも、この問題は色々複雑な要素がからんでいるはずなのでその正しい理解も一筋縄ではいかないだろう。とりあえず20世紀初頭の世界史をきちんと頭にいれておかなくちゃ。帰宅して手持ちのロシア・アバンギャルド・デザイン関連本をいくつかひっぱりだしてぱらぱら眺める。今はまだジグソー・パズルの断片であるこれらが、いつか自分のなかでぴったりはまってゆく日がくるといいんだけど。 某月某日 『松園が学んだ三人の師』展(松伯美術館)を観に行く。上村松園はわたしのいちばん好きな日本画家だ。展覧会じたいはこぢんまりとしたものだったが、松園のいちばん最初の師匠である鈴木松年の強烈な個性が印象に残った。ところで、松園は子どもをひとりだけ産んでいるが、息子である上村松篁の自伝には、父親が誰であるかは一切書かれていない(『私の履歴書 日本画の巨匠』日経ビジネス文庫/ISBN4-532-19368-0/2006年11月刊)。これは母・松園が墓場まで持って行った事項だから隠されているのはあたりまえといえば当たり前だが、巷間うわさされているのもなるほどな、と思えるような展覧会でもあった。というのも、松園の絵には時々どきっとするような強烈な「匂い」を感じるのだが、それがどこから来ているものかがすこしだけわかったような気がしたからだ。…わかりにくい書き方をしているのはわざとです、ということでこの項はおしまい。 某月某日 ひところのペースではなくなったものの、DVDやCDは相変わらず買っている。ただ、一向にはかどらない。ワシントンで買ってきたCDすら、まだ開封していないものばかりだ。ううむ。市川捷護さんのサイトジプシーのうたを求めて─Gypsy trails─で、ご自身が取材されてきた音源・映像がCDやDVDになって次々と販売されている。その都度申し込んで購入してはいるものの、なかなか落ち着いて視聴できないのが悩みどころだ。ああ、そうこうしているうちに新作『イスタンブールのジプシー・ミュージック』が出ているぞ。これも買わなくちゃなあ。 某月某日 『美しい日本の身体』(矢田部英正著/ちくま新書638/ISBN978-4-480-06338-0/2007年1月刊)を読む。わたしにとって久々の身体論、それも目から鱗が落ちまくりの、これはとてもいい本だ。昨年だったか一昨年だったかに話題になった「ナンバ歩き」に疑問を投げかけているのも痛快。アレに対してなんとなく感じていた違和感がすっきりと説明されている。本書は日本人の身体について実にさまざまな角度から考察していて、しかもどれも説得力に満ちている。今後も何度も読み直しすることになりそう。わたしがいま気になっているのは、「正しい」あるいは「美しい」身体観というものの変化のありようだ。たとえば八頭身のプロポーションを美しいと感じるのは古代ギリシャ以来の西洋的感性だが、その美意識が2000年以上も連綿と受け継がれていること自体がなんだかひどく特殊なことのように思える。話は変わるが、いつぞや『探偵!ナイトスクープ!!』(大阪朝日放送)で、しゃがめない小学生、というのをやっていた。和式便所で用を足すときのあの姿勢ができないというのだ。番組に依頼したその子どもは、しゃがもうとするとうしろにひっくり返ってしまう。足首を柔らかくすることと、しゃがむときに意識して前方に体重をかける訓練で、番組の終わりにはなんとか克服していた。要は「しゃがむ」という姿勢に対する身体イメージができていないことが原因ではないかとも思われた。そういえば、生まれたときから洋式トイレしか使ったことがないので、学校の和式トイレをすべて洋式に変えろという要望を出している親がいるとかいないとかいうニュースを見たような気がする。せっかくの「しゃがめる」身体をつくる機会を子どもから取り上げてどうするんだろうか。かくして、文明のありようはヒトの身体や精神を根こそぎ改造してゆく。 某月某日 翻訳家のおおしまさんから『驚異の発明家(エンヂニア)の形見函』上・下(アレン・カーズワイル著/大島豊訳/創元推理文庫Fカ-1-1、Fカ-1-2/ISBN978-4-48851902-5、978-4-488-51903-2/2007年6月刊)をいただく。ありがたいことである。わたしは小説を滅多によまない(映画も見ない)ので、こういう本がいったいナニに分類されるのかよくわからないのだが、「見てきたように嘘をつく」のが小説であるならば、この本は紛れもなく極上の小説だろう。この本の主人公、あるいはそのモデルとなった人物が、18世紀のフランスに実在したのかどうかなんてことはどうでもいい。なるほど、いかにも18世紀という時代はこんな数奇な運命を辿った人物を生み出しそうだな、と読者に思わせることが作者の狙いであり、その試みは成功しているように思う(とりわけ書籍商リーヴルの人物造形にはぐっとくる。それに比べ女性陣の描き方は少々物足りない)。それにしても主人公の発明品が自動人形だとは。ここでも問題は「身体」なのだな。そうして、「身体」がらみで思うのは、この小説に出てくる人間たちは誰もが体臭がきつそうだということ。現代人がワキガに悩むどころじゃないぞ。男も女も、きつそうな体臭の身体で言い争ったりまぐわったりするわけだ。この感触は、前述のロシア舞台芸術展の展示物を眺めているときにも感じた。全身の毛穴からけものの匂いがたちこめるというか。展示されていた舞台衣装から実際にそういう匂いがしたというのではなく、あくまでイメージにすぎないのだけれども。逆に、もしも18世紀の驚異の発明家が、あるいは20世紀はじめのロシアの舞台人が、21世紀の極東の島国を訪問したとしたら、そのあまりの「体臭の無さ」にビックリすることと思う。無味無臭で無表情、彼らの目にはわれわれはほとんど透明人間(あるいは自動人形)であるかのように映るんじゃなかろうか。西洋流の「身体」を考えるとき、体臭というのは存外重要な問題であると思う。少なくとも、香水の歴史は体臭がなければ生まれなかったはずだし。あと香辛料もか。そのあたりは日本式身体観との大きな差異かもしれない。水と油というか。 某月某日 『ムサフィール』兵庫公演(兵庫県立芸術センター中ホール)を観に行く。インド北西部、ラージャスターン地方の芸人集団だ。ひょっとして初来日なのかな。ラージャスターンといえばいわゆる「ジプシー」のルーツ、というのはもはや「常識の範囲内」としていいんだろうか。ガトリフの『ラッチョ・ドローム』ではラージャスターンからはじまって、遠くイベリア半島の最南端、スペインはアンダルシアまでの長い長い旅を描いていた。あの映画では、冒頭のラージャスターンの沙漠と、エンディングのアンダルシアの大草原が対に置かれていたものだ。両者のあいだには、まっすぐ直線にしても5〜6,000kmの距離で隔てられている。バビロンまでは何マイル? さて、ムサフィールの面々のパフォーマンス(「身体表現」と言ってしまおうか)はたいへん面白かった。特にカスタネットを自在にあやつるチョゲ・カーン(若い頃の渡辺謙がターバンを巻いて詰め襟学生服を着た姿をイメージしていただければよろしい)の動きが素晴らしい。ミュージシャンの6人は舞台上に胡座を組んで座っているから、動きといってもおもに上半身のみなのだが、彼らの動作はほとんどダンスでもあった。6人のミュージシャンに加えてダンサーが男女各1名、ただしソロのみでカップルで踊ることはなかった。もしもラージャスターンのダンスにフラメンコとの共通点をみるとすれば旋回することだろうか。インドの他の地方のダンスにはここまで旋回を強調するダンスはないように思う(あるいは舞台で上演するがゆえの表現の誇張かもしれないが)。また、一般にインド舞踊はハワイのフラ・ダンスと同じように、指先の角度から目玉の動かし方に至るまで、ひとつひとつの動作に「意味」が込められていると思うのだが、この日見たダンサーの身体にはそこまでの物語性はなかったように感じた。もっとも、ムサフィールのそれは芸術舞踊ではなく放浪芸/大道芸なので、ジャンルがまったく違うといえばそれまでだが。アンコールを含めても2時間たらず、もっと見たい、というところで終演。前半の各メンバーのソロ・パフォーマンスがそれぞれ面白かった。なかでも口琴のソロ、サーランギのソロ。ハルモニウムの音色も忘れがたい。機会があればもういちど見たいものだが、かわちながの公演はラグース大阪公演と重なるのよねえ。会場で貰ったチラシのうち『北京ダンス・アカデミー』公演が気になる(8月1日/2日)。これとは別に、ブルガリアン・ヴォイスのフィリップ・クーテフ合唱団も来るのよねえ(7月24日ザ・シンフォニーホール、8月4日京都コンサートホール)。ううむ。 某月某日 やっとのことでAdobe Creative Suites 3(DESIGN PREMIUM)を手に入れる。発売数日後に買いに出かけたところ、アップグレード専用パッケージはウインドウズ版しか在庫がなくて、しばらく待ちぼうけを食らわされていたのだ。インストールはDVDディスク一枚だが意外に時間がかかる。購入したパッケージのフォトショップは機能拡張版とのことだが、どこがどう新しいのかいまいちよくわからない。わたしには宝の持ち腐れかも。イラレもそうだけど、CS3になってツールパレットが新しくなっているのにやや違和感。ま、このへんは使っていくうちに気にならなくなるだろう。ユーザー登録したらアドビのオリジナルフォント「HypatiaSansPro」というのをくれた。 某月某日 『美しい日本の身体』を読んで以来、世阿弥をもういちどちゃんと読み直そうと思っているのだがなかなか時間がとれない。中央公論社だったかの「日本の名著」というシリーズに世阿弥の巻があって、わたしはそれを15年くらい前に夢中で読んでいた。まだ捨ててはいないはずだから家のどこかにあると思うのだが、見つからない。『本の雑誌』8月号を眺めていたら、瀬戸内寂聴の新刊が世阿弥の晩年をテーマにしているという記事を見つけた。世阿弥は最晩年に佐渡に流され、失意のうちに生涯を閉じるのだが、その間の事情は謎が多い。さてその謎に寂聴流解釈はどう挑むのか。この作家のことだからさぞかし愛と性でどろどろしたものになっていそうな気もするが。ともあれ、さっそく『秘花』(瀬戸内寂聴著/新潮社/ISBN978-4-10-311222-8/2007年5月刊)を買ってきて読み始める。奥付を見たら6月でもう三刷だった。ふーん。

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2007 07 15 [dance aroundface the musicbooklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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