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[book]:新スケープ 都市の異風景

●新スケープ 都市の異風景
中央アーキ編/誠文堂新光社刊/2007年8月初版
ISBN978-4-416-80701-9
アートディレクション:山田信男(CENTRAL PARK)
* * *
老舗のカメラ雑誌《アサヒカメラ》2007年9月号に〈「巨大建造物」に魅せられる人々〉という特集が載っていた。10ページにわたって工場・ダム・団地・大仏の4つの「巨大建造物」マニアの方々と、その写真作品を紹介しているものだった。
2007年は、こういう<ちょっとマニアックな>写真集がたくさん出版された年としても記憶に残るのではないか。団地はまだだが、工場やダムの他にも送電鉄塔や水門の写真集が、いずれも今年になって相次いで刊行されている。

最後の本は「作画資料」だから少し出版意図が違うけれども、写真自体はかっこいい。そして、この本を除けば、どれもみな個人運営のウェブサイトやブログがもととなっているのが特徴だろう。数年くらい前からそれぞれのマニアが独自に続けていた趣味のサイトが、ブログやミクシィなどのネットワーク化しやすいウェブテクノロジーのおかげもあって、ここへきて一気にブレイクし、書籍版刊行へとつながった感がある。
前世紀末ごろから続いている廃墟ブームを含めて、この手の工業系/土木系写真集が今年になってはじめて誕生したというわけでもないのだけれど、かつてのそれはもっと大きなサイズで、見るものを圧倒させるような異様な迫力のあるものばかりだったように思う。対して、今年出た上記の本はどれも判型がコンパクトであるのが興味深い。単に写真データの解像度のせいかもしれないが、そのぶん、より親しみやすさやカジュアルさが強調されているようだ。なにしろ書名からして「萌え」とか「恋する」だし。
ネット上ではまだまだ他にもマニアな人たちがいて、トンネルやら鉄橋やら高速道路のジャンクションやら立体パーキングやら打ちっ放しゴルフ練習場やらと、およそ人間の造ってきた建造物ならなんでもマニアックな対象になるんだなあとつくづく感心させられる。
それらのサイトを見ていていつも思うんだけど、写真がどれも「素敵でかっこいい」のだ。広角レンズを使って思い切り俯瞰するアングル、夕暮れや夜景など光の効果を上手に生かしたショット、対象物がもっとも素敵に見えるように工夫された構図…。みな「マニア」の人たちが撮っているから愛情溢れる写真になっているのは至極当然なんだけど、個人的に放言させていただくなら、「かっこよすぎる」のがやや気に入らない。
対象となる巨大建造物はどれも現代文明生活に不可欠なものばかりながら、同時に非日常的光景でもあって、そのギャップの面白さがマニア心をくすぐるんだろうな、というのは理解できる。しかしだからといって、さァどうだといわんばかりに「かっこいい」写真ばかりを見せられてもなぁ…という気分が、わたしなんかにはあるのだ。もっと淡々と、工事現場の記録写真か図鑑の標本写真みたいにクールに撮ってくれてもいいんだけれど(関係ないが3年以上前にこんな文章を書いていたのを思い出した→踊る阿呆を、観る阿呆。:ありふれた風景なんだけど)。
* * *
と、ようやく本題に入る。エントリ冒頭に書影を掲げた《新スケープ 都市の異風景》に出てくる写真は、全部とはいわないけれども、大半が比較的さりげなく撮られているので、まず好感を持った。写真のことは詳しくないからどういうカメラ/レンズを使っているのかは判断できないけれども、いかにもごく日常のスナップ的な写真なのがいい。書名に「新」とか「異風景」とついていながら、収録された写真はちっとも「新」とも「異」とも見えないのがいいのだ。
この本は「東京」というまちを対象にしているけれども、県庁がある程度の規模の街ならおそらく日本全国たいていの都市で見られそうな、ごく<ありふれた>日常的光景が並んでいる。ありふれているが故に、ふだんから眼には入っているけれどもあらためてじっくり眺め直すこともない。そういう光景が、わざわざ一枚の写真としてフレーミングされて一冊の書籍としてポンと置かれると、たしかにこれは奇妙な「異風景」だな、という気になってくる。けして「新」しい風景ではないにしろ、以後のこちらの眼が「新」しくなってしまうような(つまり街の見方が変化してしまうような)効果があるように思う。そうして、そういう新しい眼であらためて自分の住んでいる街を眺めると、確かに街には面白い風景がたくさんころがっている。要するに、本書は新しい街作りを提案するのではなく、いま現在の街を新しく眺め直してみよう、と言っている本なのである。
本書後半には建築家やミュージシャンが各自の「お気に入りの風景」を紹介するコーナーがある。文章とともに紹介者がその場に立っている写真が載っているのだが、正直あまりピンとこなかった。登場する人たちがみな知らない人ばかりというのもあるのかもしれないが、そこに人物が入ってしまうと、とたんに写真が「ただのポートレート(しかもちょっと引き気味の)」になってしまって、肝心の風景がたんなる背景になってしまうように感じられるのだ。編集企画上あるいは営業上こういうページも必要だったのかもしれないけれど、個人的には蛇足だったように思う。
本書に収められている風景写真は、どれも「写真作品」として見るなら、別段とりたててどうというものではいだろう。フォトジェニックでシズル感のある写真が見たければ、やはり先に挙げた写真集たちの方に軍配が上がると思う。本書の写真は「対象のかっこよさ」を言わんがためのものではなく、できるだけ「われわれが日常的に見ている視線」に沿って撮られたものである。
これらの風景は、人によってはごみごみした、汚い、あるいは危険な風景と感じるかもしれない。別の人は同じものを眺めてレトロフューチャー的なかっこよさを感じてるかもしれない。好悪あるいは善悪いずれにせよ、その風景からなんらかの価値観を感じ取っているのは両者に共通している。
しかし、もっと多くの人にとっては、それらは良い風景/悪い風景以前に、ただの日常の風景である。この本に収められた写真は、そういう意味で「身も蓋もない」ものである。そこがいい。
とはいえ、「その風景」をことばにしようとすると、どうしても文章を書く人の美意識なり倫理観なりが出てくるもので、本書のテキストのはしばしに、ともすればネガティブなイメージ(「陰鬱」「殺伐」「見捨てられた」などなど)が散見させられるのが残念だ。もっと徹底してニュートラルな立ち位置でもよかったのに。
最後に本書のブックデザイン、というか組版設計について。グラフィックデザイナーの仕事であろう本書は、ページごとの文字の大きさが異なるという試みがなされている。すなわち、文章量が少ないページは文字が大きく、多いと小さくなっていて、版面を文字で均一に埋め尽くすというデザインだ。

一般的な書籍デザインの常識からいえば、これは<ページの中の異風景>だろう。おそらくはある種の確信をもって組版しただろうデザイナーに、しかし、わたしは共感する。この本に限って言えばことばをあまり重要視しない方がいいと思うのだ。ことばでもって風景を語るより、日常見慣れた光景がそのままの姿で一冊の本の中に収まっている非日常感をこそ大事にするべきじゃないか。だからこそデザイナーは、ことばをただの地模様のようなモノとして処理してしまったんじゃなかろうか。
ともすればなんらかの価値観を読者に植えつけてしまいそうになっていることば群の存在をできるかぎり<風景化>させることによって、写真のもつニュートラル性を最大限生かそうとした、デザイナーの批評的工夫がここにはあると、わたしは思う。
2007 10 01 [design conscious] | permalink
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