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[exhibition]:狩野永徳展
●特別展覧会 狩野永徳
京都国立博物館 2007年10月16日〜11月18日
図録デザイン:株式会社エヌ・シー・ピー+ツムラグラフィーク
いま京都市内のあちこちに、この展覧会のポスターが貼られている。それを目にするたび、つい「狩野ATOK」と脳内変換してしまうわたしである。…オレ、疲れてるのかナ。
冗談はさておき、狩野永徳であります。この人については、橋本治さんがじつに明快に述べておられています。
日本の戦争のあり方を大きく変え、織田信長が天下を取るためには必要欠くべからざるものであった鉄砲の渡来と共に生まれ、戦国の英雄・豊臣秀吉の栄華と権力が絶頂の時に死んだのが、狩野永徳である。(『ひらがな日本美術史3』「その四十八——安土桃山時代的なもの」P.93/1999年12月刊/ISBN4-10-406103-4)室町後期から明治初期までのおよそ400年間、日本絵画界のメインストリームであり、権威であり、ブランドでありつづけた狩野派の、永徳は第四代目にあたります(1543〜1590)。ひとつの流派が一度も途切れることなくこれほど長期にわたって中央政権の「御用絵師」として君臨し続けたのは、古今東西の人類史上、狩野派をおいて他に例がないそうです。いかに代々の狩野一族の政治的な立ち回りが巧みであったかということなんでしょうけど、古い体制や既得権益にしがみつく連中をことごとく嫌ったはずの信長が、足利政権に仕えていた狩野派を潰さなかったのは、ひとえに永徳がいたおかげ、なのかもしれません。橋本さんは、信長が武力による天下統一を成し遂げる以前に、この若き(永徳は信長より九歳年下)天才絵師はすでに絵筆の力で“安土桃山”を表現していたのだとまで書いています。
あえて言えば、永徳の前に信長がいたのではなく、信長の前に、彼よりもずっと年下の永徳がいたのである。永徳は、信長以前に、もう水墨による“天下統一”を成し遂げていた。(中略)あえて言えば、信長は、永徳に引きずられて天下を取ったのである。(同上、P.105)
狩野派が完全にブランドとなるのはもう少し時代が下ってからでしょうし、ひとつの流派が「ブランド」となっていく過程はそれはそれで興味深いのですが、その基礎はすでに祖父・元信(1477?〜1559)が固めていたといわれています。
加えて特筆すべきは、弟子たちの規範となるべき画法を非常にわかりやすい形で提示したことだ。(中略)元信の周囲には少なくとも常時数十名の弟子がいたと推測されているが、そうした己の「影武者」とでもいうべき弟子たちを数多く養成することで、元信は集団的な作画活動を行うための体制を整えたのであった。(山本英男/『別冊太陽 日本のこころ131 狩野派決定版』山下裕二監修/平凡社/2004年/P.32)狩野派の成功の秘訣は、顧客のどんな注文にも応じられるレパートリィの幅広さと、制作ノウハウをマニュアル化したことによる納期の短縮および品質の均一化によるものと言っていいでしょう。今で言うプロダクション組織の嚆矢でしょうか。そして狩野派は、最終的には「大手ゼネコン」とでも呼ぶべき全国組織にまで発展しました。
* * *
今回の展覧会の出品作は、狩野永徳筆のもの、確定できないがおそらく狩野永徳筆だろうと思われているもの、狩野永徳が生きていたころにつくられたと推測される狩野派のもの、などの作品が混在しています。息子の筆になるものもあります。
正直なところ、「狩野派」名義の作品にはそれほど感心しませんでした。水墨画にせよ着彩画にせよ、マニュアルに則って万事つつがなく進行させました的な、そんな匂いを感じました。絵の中に、画家独自の発見だとか新機軸の手法だとか斬新な美意識を提示する喜びみたいなものは、「狩野派」とクレジットされた作品にはほとんどなかったように思います(このあたり、宗家の棟梁である永徳自身はどのようなかたちで作品に関わっていたんでしょうね。ディレクターとして指示するだけだったのか、下絵までは描いて仕上げを他人にまかせたのか、あるいはかなりの細部までこだわったのか。そのへんはよくわかりませんが)。
正真正銘「永徳筆」とされている絵でも、人物はともかく動物なんてどれもヘンテコで、ヘタなデッサンだなァ、などと思いながら眺めてました。虎や象のような、おそらく作家が実物を観察したことはないだろう動物はもとより、牛(左図=重文〈許由巣父図〉より、部分)や鳥などの比較的身近な動物でさえ、どれもかなりヘタクソです。ただ、これもひょっとすると近現代的な見方(あるいは感性)であって、当時の日本人にとっては永徳のような描き方こそが最高のリアリズムだったかもしれないのですが(デッサンに解剖学的視点を求めたレオナルド・ダ・ヴィンチを彼らが知っていた筈もないでしょうし)。
展覧会の目玉でもある〈洛中洛外図屏風〉(上杉本・国宝)、〈唐獅子図屏風(図録の表紙)〉や〈檜図屏風〉(国宝)などの、金碧大画のスケールの巨大さにはやはり度肝を抜かされます。なるほどこれこそが安土桃山の神髄、こういう作品こそが永徳の真骨頂であるという定説にも、なるほどなァと深くうなずかざるを得ません。
けれどわたしは、永徳の描いた他の絵に、より長いあいだ眼を奪われておりました。それはたとえば〈仙人高士図屏風〉(右図=重文、部分)の描写・描線であったり、〈群仙図襖〉(左下図=重文、部分)の人物造形だったりします。
いくら元信が作った“狩野派スタイルマニュアル”があろうとも、また一門の弟子全員が同じ技法をマスターしようとも、そこはやはり「手作業」。筆を持つ人の技量なり個性は、どうしたって作品の上に現れます。ここに掲げた永徳筆のいくつかの作品では、非常にスピーディな、そしてきっぱりと迷いのない筆さばきが味わえます。そして、画面上になんとも心地よい緊張感がみなぎっています。こういう描線や、あるいは人物の顔の描き方には「上手いなァ」「すっげー」とただ感嘆するばかり。上のふたつの作品は展示室がうんと離れているのですが、行ったりきたりしながら、飽きもせずなめるように眺めておりました。
* * *
幼いころから才能を見いだされ、祖父・元信から英才教育を受け、棟梁となって狩野派一門をぐいぐい引っ張り、天才の名をほしいままにした永徳。しかし彼は、50歳にもならずにこの世を去ってしまいました。働き盛りというか、画家として本当の円熟期を迎えるのはこれからだというのに。死因は今で言う「過労死」だとする説があるそうです。あまりに多くの注文を抱え、死の直前まで多忙を極めていたという記録が残っているんだとか。
圧倒的なスケール感をもつ代表作や、伸びやかでかつ鋭い筆致の上記作品などを眺めていると、「名門・狩野派」のトップだったことが彼にとって良かったのかどうか、わからなくなってきます。英才教育を受けられたことやふんだんに制作/発表の場を得られたことは間違いなく立場上の特権だったのでしょうけど、流派だのなんだのというワクにとらわれることなく、ただの一匹狼として好き勝手に絵を描いていたら(そのぶん長生きしてたでしょうし)、はたしてどんな破天荒な作品を生み出していたんでしょう。歴史に「if」はナンセンスですけど、ひょっとしたら、その後の日本画の歴史も少しばかり変わっていたかもしれません。
2007 11 01 [design conscious] | permalink Tweet
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comments
明日から4夜連続特集に登場ですね。
「ハイビジョン特集 天才画家の肖像 美で乱世を制した絵師 ~狩野永徳~
BShi 11月8日(木)午後8:00~9:50」
私はこの分野、教科書程度の知識しかありませんけれど、狩野派と言え・・・と言うか異端に属するのでしょうか、「ワクにとらわれ」なかった方の人で、狩野芳崖が特に興味深いです。(近世と近代になりますか)
十数年ほど前でしたかね、「伏龍羅漢図」のニュースを見て、粗いですがカラー印刷の新聞を目にした時は震えるほど感動しました。いつか福井まで観に行きたいと思っております。
「悲母観音」や橋本雅邦の「騎龍弁天」と共に、秘められた壮大な物語を読んでみたいです。
えらい脱線しまして失礼します。
posted: Fujie (2007/11/04 23:39:56)
コメントありがとうございます。
あの一派は動乱期とかの「ここぞ」という時に、それにふさわしい人材がちゃんと登場しているのがすごいと思います。まあ、そうでなきゃ400年も続いてなかったんでしょうけど(芳崖も時代の変わり目の人でしたね)。
京博は2008年に河鍋暁斎、2010年には長谷川等伯をやるそうです。暁斎はかなり楽しみ。
番組の方、興味はあるんですが、うちは未だにハイビジョンが観られない環境でして(苦笑)。地上波での再放送、やんねぇかなあ…。
posted: とんがりやま (2007/11/05 22:35:47)