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制作学ってナンだ・続き

 
『絵画の制作学』をめぐるまとまりきらない考察、その2です。
 
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「作者の絶対性」が保証されていた19世紀的芸術観から「鑑賞者」の重要性を強調した20世紀前半のデュシャン、そしてついに「鑑賞者」だけでも「芸術」が成立すると主張した20世紀後半の赤瀬川=トマソンを経て、21世紀初期に出版されたこの本は、芸術作品をもういちど「作者」の側に立ち戻そうとする試みであると、わたしは期待しつつ読みはじめた。
 のだけれども、一読して、わかったようなわからないような複雑な気持ちになり、以降何度か読み返しているのだが、「制作学」がどういうガクモンなのか、まだいまいちよく理解できていない。
 
 本書の内容は多岐にわたり、また執筆者も多いので、以下に目次を引き写しておく。括弧内は各項目の執筆者だが、目次ページには記されてない。

第 I 部《制作学の概念》
制作学(谷川渥)
創造過程(藤枝晃雄)
完成と未完成(宮下誠)
モティーフとレアリザシオン(前田英樹)
デッサンとドローイング(小澤基弘)
色彩(1)——色彩の表現性について——(神林恒道)
色彩(2)——絵具と技法——(森田恒之)
作品(1)——作品の成立——(藤枝晃雄)
作品(2)——作品の見方——(藤枝晃雄)
余白(玉蟲敏子)
タイトル(宮下誠)
工房(尾崎彰宏)
修復(森田恒之)
複製(1)——複製技術と複製芸術——(谷川渥)
複製(2)——絵画作品の「複製」(谷川渥)
 
第 II 部《制作学による作家論》
レオナルド・ダ・ヴィンチ——創造への確信・混沌(カオス)を超えて——(水野千依)
カラヴァッジョ——内在化された奇蹟——(宮下規久朗)
レンブラント・ファン・レイン——自己成型への挑戦——(尾崎彰宏)
俵屋宗達——越境する絵の匠(たくみ)——(玉蟲敏子)
葛飾北斎——江戸絵画史上の風雲児——(藤澤紫)
クロード・モネ——「感覚」を描く——(六人部昭典)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ——自画像の彼方へ——(木下長宏)
エドヴァルド・ムンク——内面と表面——(谷川渥)
パウル・クレー——左手による創造行為の視覚化——(宮下誠)
アンリ・マティス——描くことを描く——(井上明彦)
パブロ・ピカソ——その重要部分——(藤枝晃雄)
アンドレ・マッソン——オートマティスムの絵画——(谷川渥)
アルベルト・ジャコメッティ——創造と破壊の果てに——(小澤基弘)
バーネット・ニューマン——観念と形式——(藤枝晃雄)
ジャクソン・ポロック——存在と生成——(大島徹也)
モーリス・ルイス——継承と創造——
フランシス・ベイコン——〈偶然〉のもたらすもの——(小澤基弘)
 
第 III 部《現在活躍する作家への質問》
○赤塚裕二○大岩オスカール幸男○草間彌生○塩崎敬子○芝章文○白髪一雄○須賀昭初○館勝生○中上清○中村功○中村一美○根岸芳郎○本田健○松本陽子○真島直子

 以上の項目のあいだに、12本のコラムが挿入されている。なかなか盛りだくさんである。

「制作学」の本だから視点が作者側に立っていることは当然なんだけど、「制作学」が言葉によって語られる以上、制作そのものではあり得ないのもまた当然である。

「制作学」の提唱者ルネ・パスロンのいうように、でき上がった芸術を相手にする美学や美術史にとって、絵画とは「画廊や美術館の現象」だが、作られつつある芸術を相手にする制作学にとって、絵画とは「アトリエの現象」である。この対比にもかかわらず、両者は「学」である以上、ともに言語で書かれるという点で同属であり、絵具という物質で作られる絵画そのものとは決定的に別次元にある。制作学も美学も「アトリエの現象」ではなく、「研究室や書斎の現象」なのだ。(第二部〈アンリ・マティス〉井上、p238)
 制作学の可能性、というよりむしろ制作学の不可能性とでもいうべきなんだろうか。こういう文章を読むと「制作学」ってよくわからない、何のためにするガクモンなんだろうか、と思ってしまうのもやむを得ないだろう(ちなみに、芸術作品を「画廊や美術館の現象」として捉える方向には「美術館学」というものがあるらしい。なんでもかんでも「学」をつければいいってもんじゃねーぞとも思うが、いつだったか本屋でそういうタイトルの付いた分厚い本をみかけたことがあって、そのうち読んでみたい。もしかすると、わたしなんぞにはそちらの方がより面白がれるかもしれない)。
 
 もうひとつ、本書のわかりにくさの理由として、主題となる「絵画」があまりに広大すぎるというのがあるだろう。『絵画の制作学』という表題の本であるからには、本書の対象が「絵画」であることは明白なんだけど、さてその「絵画」とは何なんだろうか。
 たとえば第二部では、15世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチから20世紀のベイコンまでがとりあげられていて、さながらインスタント西洋美術史の観を呈しているのだが(その中に宗達と北斎が混じっている)、その500年ほどのあいだ、人々の絵画や芸術に対する考え方がずっと不変であったわけではないはずだ。レンブラントの生きていた社会とモーリス・ルイスのそれとでは「絵画」のもつ意味が大きく異なっていて当たり前で、作家が創作に向かう態度もおのずとまったく違ったものになっていただろう。となると、カラヴァッジョと俵屋宗達とマティスが同じ目次に並ぶことの意味はどこにあるんだろうか。単に「有名どころをいろいろ集めてみましたぁ」? まさかね。
 本書は多種多岐にわたる「制作学」の可能性を示す入門編もしくはカタログのようなものを意図して編まれたものかもしれない。できるだけ多種多様な項目を収録しておくから、そのなかで気になったものがあれば、あとは各自が自由に掘り下げていけ、というふうな。
 けれども、それにしては第一部「制作学の概念」はなんだか中途半端で物足りない気もする。「絵画制作」にまつわることの、これだけがすべてではないだろうし(たとえば絵具の話はあるけれど筆や支持体の話題には乏しい、というふうな)。絵画に附属する絵画作品以外のモノはすべて作者の責任範疇外ということなら「制作学」の概念からも外れてしまうのだろうけれど、額縁や表装方面の話も読んでみたかった。なぜなら、美術館などで作品を観るとき、われわれはその絵画作品それ自体だけを見ているのではなく、額縁や表装具も含めて眺めているはずだからだ。
 あるいはたとえば、自身の絵画観を書き残した画家は多いけれど、その言葉と実際の絵画作品との整合性や差分を分析している研究者は誰もいないのだろうか。作家のことば通りに絵画作品ができあがっている場合であれそうでない場合であれ、いずれも「制作」の神秘を解き明かす一端になりはしないか。一例を示せば、すでに1940年代にアール・ローランという米国人が、ポール・セザンヌの絵画理論と実際の作品との差異を細かく検証しつつ彼の絵画を分析しているのだが(内田園生訳『セザンヌの構図』美術出版社、1972年)、ああいう仕事こそ「制作学」と呼ぶにふさわしいのではないかと、わたしなんかは思ってしまうのだが。
 第三部では、現代作家へのアンケートとして15人が選ばれているが、申し訳ないんだがわたしがこの中で名前を知っていてかつその作品を実際に観たことのある人は、たったひとりしかいない。この面々が現代日本の絵画界を代表しているのか、あるいはしていないのか、そういうことさえまったくわからないのだが、それでも第二部のオールスターぶりに比べると、第三部の人選はずいぶん奇妙だと思う。実は、これはわざと狙ってるんじゃないかと思うんだが、いったい何を狙ってるのかはさっぱりわからない。もひとつ言えば、第一部の制作学概論および第二部の古今東西の作家論とこの第三部とは、実のところほとんど関係がなさそうなんである。その無関係さかげんもなかなか凄いと思う。
 この第三部、15名の作家にはすべて同じ質問を投げているのだけれども、まるで答えていなかったりするヒトもいて、その身勝手ぶりも面白い。作品を創るまでが作家の仕事で、それ以外のことはまるで問題視していないヒトが多いという印象を受けるが、このへんは文字通り十人十色なんだろう。アーティストとギャラリーの関係をしっかり考えるべき、と答えた作家がひとりだけいた(大岩オスカール幸男)のが、かえって新鮮だった。
 
 前回のエントリでわたしは<「作者ー作品ー鑑賞者」の三者がいてはじめて「芸術」が成立するという考え方は、現在では至極当たり前のようだけど、かつてはそうでもなかった>と書いたけれど、「作者—作品」だけで芸術だぜ、という漱石的立場もまだまだ死んではいないのだなあ、ということが、この第三部を読んでよく分かった。
作品がいわゆる私的な空間でなく、例えば会社のロビーのような公共の空間に設置される際にも絵の内容がそれによって影響を受けることはない。作品が物として社会に晒されることになっても、絵画はそれを見るであろう一個人を対象としているという点で変わりないからである。(根岸芳郎、p366)
 
わたし・画面・外界の三者が関係を持っている間は完成とはいえない。この三者の関係を終わらせて、画面として自立(自律)することが完成といえるだろう。それは、画面がわたしや外界と切り離されて、関係が絶たれたときに、完成したといえるのである。(中村功、p373)
 
プレゼンテーション(作品の発表、展示)に関しては、必要最小限以上には、できる限りかかわらないようにしている。絵画は基本的には自立した存在であるべきだという気持ちが強いためである。(中上清、p378)
 すべての作家がこういう意見の持ち主ばかりではないと但し書きをつけておくけれど、本書第三部に寄せられたこのような「作家の声」を読むと、なんだかいろいろ考えさせられてしまう。芸術至上主義とでも呼ぶのだろうか、作者とも鑑賞者とも、あるいは時代や社会とも切り離されて「芸術」がひとりそこに屹立しているというイメージは、確かに荘厳なまでに美しいとは思うのだけれども、しかし一方でそれでは芸術を袋小路に追い込んではいやしないか、とも思うからだ。
 
 わたしは前回のエントリで(A)漱石的「作者ー作品」の芸術観、(B)デュシャン流の「作者ー作品ー鑑賞者」という芸術観、(C)赤瀬川的「(匿名の作者)—作品—鑑賞者」という三つの芸術観があると述べたけれど、ある作品が鑑賞者の目に触れるまでには、実はもうひとつ重要な要素が必要だ。
 それは、絵画などの視覚芸術なら画廊のオーナーや美術館のキュレーター、文学だったら編集者や出版社、音楽家ならレコード会社やプロデューサー、あるいはコンサートやイベントのプロモーター、そういったポジションにいる人たちだ。ひとくくりに「媒介者」とでも呼んでしまおうか。媒介者と、彼らが提供する場所(画廊や美術館やコンサートホールやライブハウスや、あるいは雑誌やテレビ番組やCDショップや書店やインターネット上などなど…)、このふたつがなければ作品と鑑賞者が出会う機会は極端に減ってしまう。
 第三部のアンケートでギャラリーとアーティストの関係を意識している作家は少ないとさきほど書いたが、他の作家はその辺をわざと無視しているのか、あるいは気づかないふりをしているだけなんだろうか。作品を「どこで」「どういう手段で」発表するか、は実はとても大事なことだろうと思うのだけれどもどうなんだろう。村上隆などのように、現代日本の美術家でもそのへんをはっきり意識して自らコントロールしようとしている作家がいないわけでもないはずだが、本書にこそそういう作家の意見も交えて欲しかった。
 
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 金ぴか袋にパッケージされた装幀デザインからしてすでにそうなのかもしれないが、全体としてこの本はとあるなんらかの世界に「閉じこもろう」とする意識が強いように感じられる。広く社会に開かれていない感じ、とでもいうか。個々の文章には興味深いものもあるけれど、一冊の本としてみるならばなんとなく物足りなさが残る。
 それはひょっとすると「作者—作品—鑑賞者」や「作者—作品—媒介者—鑑賞者」、あるいは作者が匿名化した「作品—鑑賞者」などのような視点/芸術観がほとんど抜け落ちているからではないかと、わたしは思う。「作者ー作品」でよしとする近代的な芸術観はまさに「近代」という一時代だけの特異な事例で、それ以外の時代ではもっと「媒介者(パトロンもこの中に含めて良いだろう)」や「鑑賞者」の立場が重要視されていたんじゃないのか、という気がする(気がするというだけで、わたしには何の根拠も裏付けもないのだけど)。
 くり返しになるが個々の項目はそれぞれ興味深いし、上に書いたような「媒介者」や「鑑賞者」を念頭に置いた文章がまったく無いというのでもない。けれども一冊の本の基調となるべき部分、本を貫くコンセプトに、そういうどっしりとした何かが足りないんじゃないだろうか。
 
 読後に「結局、制作学ってナンなんだ」がよくわからなくなってしまうのは、そんな理由からなのかもしれない。

2008 01 21 [booklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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