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制作学ってナンだ

  
 年末年始の休みには本を読んでしっかり考えよう、という年一回のシリーズ。強いて当ウェブログのタイトルにひっかけて言えば「踊る阿呆」と「観る阿呆」のあいだにはいったい何があるんだろうか、というのが主なテーマであります。昨年は観客考、一昨年には踊る舞踊論を書きましたが、以下の論考は、自分の中ではその延長線上のつもり…というか、何年経っても思考回路が同じところを堂々巡りしているような気がするんだけど。
  
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Seisakugaku

●絵画の制作学
 藤枝晃雄+谷川渥+小澤基弘・編/日本文教出版発行/三晃書房発売/2007年10月初版/ISBN978-4-7830-1034-0
 デザイン:GRAPH
 
 のっけから怒りモードだが、このブックデザインはあんまりだ。カバーはツルツルピカピカの黄金の紙、小口や天地にも金の塗装を施してある。ただしこの単行本自体は同じく金色に光り輝くプチプチ袋にパッケージされて店頭に並んでいるから、中を見ることはできない。
 袋入りということは、店頭で中身をちょいと立ち読み、というわけにはいかないということだ。わたしが購入した書店では見本用に一冊開封されていたが、そんなスペースの取れない本屋だったらどうするんだろう。
 プチプチ袋入りなんて店頭でもじゅうぶん邪魔っ気だが買ってからも大変で、まあ袋は捨ててしまっていいのだろうけど、金紙のカバーはキズや指紋やホコリが付きやすく、みるみるうちに汚れていってしまう。そのままでは読みにくいのでカバーを取っ払って読んだ。いったいなんのためのカバーだ。
 カバーおよび本体表紙/背に印刷された表題も見にくい。フォントもふた昔前のドット字みたいなたよりない文字で、ひどく読みづらい。
 ぜんたいとして、これは読むことをことごとく拒否しているブックデザインだと思う。本ってのは読まれるためにあるんじゃないのか。
 出版社はきっとこの本を売りたくないに違いない。わたしにはそう思われてならない。きっと崇高なコンセプトのもとにデザインされたことなんだろうとは思うが、おそらく本に対する考え方がわたしとはまったく違う場所にいる人たちなんだろう。
 こんなひどいつくりの本など買う気になれない。もっとまともな装幀で出し直すか数年後に文庫入りでもしてくれればいが、どちらも期待できそうにないのでやむなくレジに持って行った。ひとえに中身が読みたかったからだ。
 
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 とまぁ、そういうことはさておいて、「制作学」なるガクモンが存在することを、わたしはこの本ではじめて知った。本書によれば「制作学」の概念が本格的に提出されたのは1975年のこと。ある芸術作品を、鑑賞者の側から語るのではなく、制作の現場から見ようという立場に立つもの、らしい。
 
 ふたたびこのウェブログのタイトルにひっかけると、ある「作品」をまんなかに置いて「踊る阿呆」と「観る阿呆」を配置するという考え方、つまり「作者ー作品ー鑑賞者」の三者がいてはじめて「芸術」が成立するという考え方は、現在では至極当たり前のようだけど、かつてはそうでもなかった。

 たとえば、夏目漱石が1912年に書いた<芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである><芸術の最初最終の大目的は他人と没交渉であるという意味である>という言葉を引いて、孫である夏目房之介がこう解説している。

 これが、この国が近代化にともなって西欧から輸入した芸術観である。
 ここで想定される「芸術家」という送り手は、個人が表現と作品の全体をほぼ完全に操作しうるという前提で成り立っている。
 (中略)
 彼は、ここで語っている限りにおいては、芸術表現の純粋性を強調し、表現の世界から他者を追い出してしまった。純粋に自己表現だけを動機とし、目的としたために、伝達という側面は存在しなくてもいいものとさえ見なされている。(『マンガ学への挑戦 進化する批評地図』pp.50-51、NTT出版/ISBN4-7571-4084-3/2004年10月刊)
 <伝達という側面は存在しなくてもいい>とはまた大胆な、とは思うが、ともあれこれが19世紀末〜20世紀初頭の知識人の芸術観だというのである。
 およそ人間のおこなうあらゆる表現は(それこそ新生児があげる産声からすでに)他者とのなんらかのコミュニケーション行動のあらわれであるとするならば、漱石の主張はなかなか奇妙なものに映るが、ひょっとして新生児の産声と「大芸術」とを区別する物差しのひとつが、この<伝達という側面>を重視するかどうか、だったのかもしれない。
 
 次にマルセル・デュシャンの言葉を引用してみる。1957年4月にヒューストンで開かれた「全米美術連盟」年次総会で行った講演から。
「創造的営為は芸術家のみによって行われるものではない。鑑賞者は作品に内在する特質を解読、解釈することによって作品を外の世界に触れさせ、創造的営為に貢献をはたす。後世が作品の最終的な価値判断をくだすとき、またときには忘れられた芸術家を復権させるとき、このことがさらにあきらかになるだろう。」(『マルセル・デュシャン』P409、カルヴィン・トムキンズ著/木下哲夫訳/みすず書房/ISBN4-622-07020-0/2002年12月刊)
 デュシャンは同様の主張を、50年代以降くり返し述べている。<「作品」はあくまで「作者」のものであり、「観客」はそれをただ有難く受けとるだけ>という図式にノーと言ったわけだ。彼は別のところでこうも言っている(1961年のフランスでのインタビューから)。
世界中でもっとも偉大な芸術家が砂漠にあるいは住民のいない土地にいると想定してご覧なさい。芸術なんてないでしょうね、それを見るための人がいないのですから。芸術作品は、そのものとして認められるためには見られなければならないのです。見る人、観客は、芸術現象では芸術に劣らず重要なのです。(『デュシャンとの対話』p.96、ジョルジュ・シャルボニエ/北山研二訳/みすず書房/ISBN4-622-05016-1/1997年9月刊)
 漱石ならたぶんこの言葉を否定したに違いない。「作者」がそこにいる限り、「芸術」はそこに在る、と。
 
 漱石の時代の「芸術作品は作者の自己表現であり、他者は関係ない」という芸術観(これは21世紀の今でも(ところによっては)通用しているかもしれない)。そのあとデュシャン流の「鑑賞者が作品の価値を決定する」という考えかたが来て、さらに日本には1970年代から80年代にかけて赤瀬川原平らが「発見」した<超芸術トマソン>がある。ここに至って「作品」から「作者」が消されてしまい、ただ「鑑賞者」が在るのみとなってしまった。
表現意欲が露出した作品が氾濫する現代にあって、自らの手による制作を放棄し、第三者によって意図せずに作り出された“もの”を発見・評価しようとする赤瀬川の試みは、まさに眼の革命というべき斬新な行為であった。(『日本美術の発見者たち』p99、矢島新・山下裕二・辻惟雄著/東京大学出版会/ISBN4-13-083035-X/2003年6月刊)
 ただしこの文章を書いた矢島新は、同じ章の末尾を<ただ、芸術家の一〇〇パーセントの表現行為としての芸術に慣れ親しんできた西洋世界において、無作為の表現という概念が受け入れられるのかどうか、少なからず疑問である。(同、p104)>と結んでいて、いまのところはまだきわめて日本的な芸術観であり、世界に通用するかどうかは今後の展開次第だとしている。
 
 私見を付け加えるとトマソンの意義は「現場」を発見したことだと思う。鑑賞者が自分だけの新しい「美」を発見するとき、それが美術館や美術全集の中ではなくて、“日常の路上”という「現場」だったということ。これが革新的だった。
 それから、この「日常の路上」は常にわずかずつでも変化していくものでもあるから、昨日見つけた“物件”が今日も存在しているとは限らない。トマソンにはそういう刹那的なスリルも孕んでいる。つまりはライブ感が命だということだ。「超芸術トマソン」では発見された“物件”を雑誌に投稿するというスタイルで発表されたが、これもまたライブの感覚だ。
 トマソンのもつこれらの特性、すなわち「作者の匿名性」「鑑賞者の優位性」や「現場性」、さらに「ライブ性」は今でもそっくり有効で、たとえば昨今話題の工場やダムや団地の再発見ブーム、あるいは掲示板やニコニコ動画などへの大量のコメントラッシュに見られるような、インターネット界隈のサブカル系ムーブメントには上記の特性がほとんどあてはまるだろう。
 
 なんにせよ「美」が立ち上がる現場は面白い。別に「美」でなくても「すてき」でも「面白い」でも「かっこかわいい」でもいいんだけれど、完全に出来上がってしまったモノそれ自体よりも、モノが立ち上がりつつある「ライブ」な「現場」の方が良いのだという価値観は、これまでのどの時代よりもいまがもっとも強力になっているように思う。さらにもうひとつ、「作品」から「作者」が消えて匿名性の高くなった「作品」を、同じように匿名性の高い「鑑賞者」が同時多発に楽しむという光景も(これは著作権関連の問題に見られる「作者」の強力な固定化、「作品」のより堅牢な流通システム化に対するの有言・無言の反発/反動でもあるのだろう)。
 このように、「作者ー作品ー鑑賞者」の三者の関係は、時代によってその濃度を微妙に変化させている。
 
 と、ここでようやく冒頭の『絵画の制作学』に戻る。書店でこの書名をみたときにわたしの頭に浮かんだのは、これは「美」の立ち上がる現場についての、「観る阿呆」の側ではなく「踊る阿呆」の側からの記述を試みた本なんだろうか、というものだった。いったん消えて匿名になってしまいつつある(ブラックボックス化しつつある、と言い換えても良い)「作者」サイドからの反撃というか。
 ともすれば見えにくくなりつつある「踊る阿呆」のその「踊る」手つきを、あらためてじっくり眺めてみたいではないか。(以下、続きます)

2008 01 15 [booklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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