« 2年後の《セビージャ》——マリア・パヘス、2008 | 最新記事 | 擁壁見物 »
[stage]:マリア・パヘスの自画像
というわけで行ってきました東京国際フォーラム。前回書いたエントリがすでにパセオ・フラメンコのしゃちょサンに見つかってしまいましたが、いろんな意味でワタシも赤面しておりますです、はい。
というのも、ここしばらく、というか正確には前回の来日公演以来、パセオ・フラメンコ誌をまったく読んでいなかったもので(わぁあああ、すみませーん)。で、先日の兵庫公演の翌日に本屋に走りました。マリア・パヘスのインタビューが載っていたので読んでみたら、先月号とあわせて2月連続の小特集だったんですね。うわぁああ。「マリア・パヘスの大ファン」を自称しておきながらなんたる失態。
…買い逃していた4月号は国際フォーラムの公演会場で無事購入でき、帰りの新幹線の車中でゆっくり読ませていただきました。
* * *
同誌を読むまでまったく知らなかったんだが、実はマリア・パヘスは、2年前の日本公演の前後に、人生における非常に大きなターニング・ポイントを迎えていたのだった。
「『セビージャ』を日本で初演したときは、私の人生で一番、と言ってもいいくらいにたいへんなときだった。私の人生のパートナー(映画監督で演出家として、彼女の作品にも関わってきたホセ・マリア・サンチェス)が病気だったの。でも、だからこそ彼は、私がこの作品に集中して、仕上げてほしいという思いがあった。残念ながら彼は、私が日本から帰ってきてすぐに亡くなりました」(『パセオ・フラメンコ』2008年4月号p.53)
この件は5月号でも少し触れられていたのだが、このくだりに、わたしはすくなからぬ衝撃を受けた。これまで何度も観てきたマリア・パヘスの公演パンフレットのクレジットにもかならずその名が記されていたホセ・マリア・サンチェスが、あろうことか06年日本公演の直後に亡くなっていたとは! そして、一昨年のあの異様とも言えるほどの張りつめたステージと、今回のステージにおける彼女の踊りの変化、その理由の一端が腑に落ちたような気もした。今さらながらではあるけれども、あらためてご冥福を祈りたい。
さて、新作『セルフ・ポートレイト』である。舞台に用意された小道具といえばかろうじて身長の倍に近い大きな鏡ひとつだけという、非常にシンプルかつ研ぎ澄まされたステージである。しかし、マリア・パヘスは、その鏡をさまざまなアイディアのもとに、自在に扱ってみせた。照明の使い方とともに、まさに「劇場フラメンコの第一人者」の面目躍如と言っていいだろう。前半から中盤にかけての、背景ホリゾントから衣装まで黒で統一したストイックさと、一転して終盤になってのカラフルな高揚感、その色彩の対比も見事という他ない。
フラメンコというダンスを「観客に見せる」ことを、マリア・パヘスは絶えず考えている。そうして、自らの肉体が、360°どこからでも「鑑賞するに値する」身体であることを、誰よりもよく知り抜いている。そのことがまずなにより特筆大書されるべきだろう。これほどまでに己の身体のすみずみに自覚的なダンサーも、実のところそう多くはいないんじゃないだろうか。自覚的である上に、それを武器として全面的に押し出せる、そのセルフ・プロデュース能力の高さという点でも、当代随一じゃないかとさえ思いたくなる。
先日の『セビージャ』再演版でもそうだったが、マリア・パヘスは、しばしば観客に背を向ける。『セルフ・ポートレイト』もそのオープニングは、舞台奥にしつらえた鏡に向かっている——すなわち、自身は観客に背を向けている——姿であった。その後ろ姿が、また、たとえようもなくかっこいいんだから堪らない。
カルロス・サウラ監督のかの大名作『フラメンコ』(1995年)や、アイリッシュ・ダンス・ショウの歴史的ヒット作『リバーダンス』(舞台化はこちらも1995年)以来、「シルエットの美しさ」はマリア・パヘスの代名詞のひとつでもある。彼女の立ち姿は「美しい」としか言いようのない、唯一無二のものであると思う。今回の『セルフ・ポートレイト』でも、照明の切り替えによってさまざまにポージングする場面があったが、古代ギリシャ彫刻のごとく完璧なまでのその肢体は、ただそれだけで驚嘆に値するのである。
前作での光るシューズ、それ以前だとスクリーンを使った二重写しのような演出効果、また扇やステッキで刻む多様なリズム、舞台上での衣装の早替え…などなど、トリッキーなアイディアの豊富さも、マリア・パヘスのエンターテイメント性を語る上で欠かせないアイテムだった。しかし、『セビージャ』再演版も含め、彼女は徐々に、そういうふうなこれみよがしなギミックから離れようとしているように感じた。まったく否定してしまったというのではない。そうではなく、ギミックの扱い方がより洗練されてきたということだろう。今回の舞台でいえば、小道具は鏡ひとつだけ、しかしステージ中盤で、あっと言わせるような、計算され尽くした心憎い使い方をする。
* * *
わたしがはじめてマリア・パヘスのナマの舞台に接したのは、1999年3月の『リバーダンス』初来日公演のときだった。大阪フェスティバルホールでごく間近に観ることができたあの衝撃は、いまだに忘れ得ない(このときすでに、わたしはマリア・パヘスのシルエットの美しさを「才能の一種」と評している)。思えば、あれからもう10年が経とうとしている。ダイナミックかつパワフル、まるで疲れるということを知らないんじゃないかと思わせるようなステージはいまだ健在ではあるが、マリア・パヘスそのひとの風貌は、来日のたびにどんどん変わっていく。今年の彼女は、ときに老練な哲学者を思わせるような透徹したまなざしがとくに印象的であった。
実はわたしは彼女とほぼ同世代である。だからというわけではないけれど、この素晴らしいダンサーとまったく同じ時代に生きていることの喜びは、人一倍つよく感じているつもりである。フラメンコ・ダンサー、マリア・パヘスを、このさき何年も、いや何十年も見続けていきたいと強く願っているひとりでもある。
とりあえずは、また2年後?を心待ちにしていればいいんだろうか。そしてそのときには、どんなおどろくべき舞台を見せてくれるんだろうか。
2008 05 11 [dance around] | permalink
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comments
前の「セビージャ」とこの「セルフポートレート」、二つのエントリーを拝見しました。(流石ですねえ)
ようやくここを拝見して、これからパセオを開こうかと思っているところだったりしますが・・・うーん、
いや、ええ、あの鏡は素敵でした。
何だかボーッとしてしまって途中良く覚えていないのですが、今回はこれまでにない不思議な雰囲気のするステージだったように感じました。
演目とか構成ではなくて、なんて言うか、オーラとでも言うのでしょうか、以前とは違う気がしました。
私の場合は9日にセルフポートレート、11日にセビージャだったせいでしょうか、最後が、あれ?え?という締めくくりになってしまって、いまだに戸惑っています。もちろん素敵なステージだったことには間違いないのですが、ちょっと腑に落ちきらないような・・・前回の印象を引きずってしまっているかも知れません。
まあ、何だかんだ言ってまた観たいのですけれど。
posted: Fujie (2008/05/13 1:36:12)