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[exhibition]:Bruno Munari

●生誕100年記念 ブルーノ・ムナーリ展 あの手この手
2007年12月01日〜2008年01月14日 板橋区美術館
2008年05月31日〜2008年07月06日 滋賀県立近代美術館
2008年09月13日〜2008年10月26日 刈谷市美術館
【展覧会図録】
発 行:朝日新聞社
デザイン:駒形克己
作家としての名前だけは良く知っていて、でもその代表作や主な業績となるとさて、とすぐに思い浮かばない人っていうのは誰しもあるだろう。人によって違うだろうけど、たとえばファッション・デザイナーなんていうのもそういう部類に入るかもしれない。
先日イブ・サンローランの訃報を聞いてわたしが真っ先に思い浮かべたのは、貰い物のハンドタオルとかスリッパなんかの、きわめて俗っぽいライセンシー商品群だった。YSLの他にも、ヴァレンチノだのクレージュだのといったオートクチュール・デザイナーがたくさんいたなあ。
そういえばうーんと大昔のことだけど、京都の和装小物の問屋さんからこの手の「パリの某有名ブランド商品」のデザインをアルバイトで頼まれたことがある。たしかモノは帯留めだとかそういう類だったか。商品の隅にそのブランドのロゴマークさえ入ってれば、あとは好きにしてくれて良いという話なのだが、あいにくこっちはデザインのイロハもまるで知らないただの学生。そもそもなんで自分のところにそんなトンデモ話が舞い込んできたのかもう思い出せないが、ともかく夏休みを使って何点か絵を描いた。その後それが商品として採用されたのかどうかまでは知らない。たぶん没になったんじゃないかと思うが、ともあれライセンス商品ってのはいい加減なもんだな、という記憶だけが残っている。
という具合に、かつて「猫も杓子もライセンシー」という時代があって、アパレル関連にとどまらず白物家電商品なんかまでもがそんな流れの中にいたから(確か原付スクーターや軽自動車もなかったかな)、肝心の衣服デザインを見たことがなくても名前だけは知ってる、という日本人はかなり多かったはずである。ま、名前が残るということはビジネス的には大成功したという証でもあるはずなので、本業のことに思いを馳せないことがそのデザイナーに対して失礼なことなのかどうか、実のところはよくわからないが。
閑話休題。ブルーノ・ムナーリという人も、わたしにとってはそういう「なんとなく名前は知ってるけど」レベルの人に近かった。デザイナー? 絵本作家? 造形作家? うーん、何が専門だったんだろ。平面・立体問わず、あるいは非常に作家的な仕事から広く誰でも知ってる工業製品まで、なんでもこなしてしまう人なだけに、かえってじゃあその中心は何? と問われるとよくわからなくなってしまうのだ。「マルチ・クリエーター」などと書くとバブル期ニッポンのあやしげな「ギョーカイ人」をイメージしてしまってあまりよろしくないが、しかしそう呼ぶしかなさそうな人でもある。
1907年ミラノ生まれ、亡くなったのもミラノで、1998年。会場で年譜を眺めていておや、と思い、すぐに非常に納得したのが、1920年代後半から30年代後半にかけて、未来派に参加していたということだった。マリネッティの「未来派宣言」が1909年だから、ものごころがつく頃にはすでに身の回りがそういう空気に満ちていたことだろう。そういう眼で彼の業績をざっと眺めると、なるほどこの人こそは「未来派の申し子」と言ってもいいんじゃないかという気がする。
ルーブ・ゴールドバーグ(参考/漫棚通信:最大の努力で最小の結果を:ルーブ・ゴールドバーグ)の影響のもと描かれた絵本『ナンセンスの機械 Le Macchine di Munari』の出版が1942年。いわゆる<ルーブ・ゴールドバーグ・マシン>は急速に機械化・自動化しはじめる近現代文明へのユーモラスな批評にもなっていて、その点だけ見れば機械文明をほとんど無条件に賛美する未来派とは、相反する立場のようにも思える。
しかしムナーリの関心は、「機械文明がもたらすもの」ではなく「機械というシステム」そのものにあった。熱膨張や落下といった自然発生的なエネルギーを、滑車やコロのようなこれまたごく単純な道具を利用して違うエネルギーに変える。結果的に得られるものがトンデモ方向に行くのはいわばサーヴィス精神みたいなもので、むしろそのプロセス、エネルギーがつぎつぎに変容していく様相こそが面白かったんじゃなかろうか。
じっさい、ムナーリは、終生「動くこと・変化していくこと」への関心を失っていない。「役に立たない機械」と名付けられたモビール、ページの中にしかけられたフリップを次々とめくっていく一連の仕掛け絵本、たった一枚の紙に切り込みを入れ、複雑に折ることでさまざまな美しいフォルムを生み出す「旅行用彫刻」(なんて素敵なネーミング!)、原稿を動かしながらコピーすることでオリジナルとまったく異なるビジュアルを作り出す「ゼログラフィーア」…。どれも結果というよりその過程、メタモルフォーゼのプロセスそれ自体を楽しむような作品だ。
上で触れたマリネッティの未来派宣言(1909年)に、<咆哮をあげて、機銃掃射のうえを走りぬけるような自動車は「サモトラケのニケ」の像より美しい>という有名な一節がある(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』講談社新書より引用)。未来派はなによりスピードを欲した。ひとつところにとどまらず、次から次へと動いていくことが美だと言った。ムナーリもまた、次々と動いていくプロセスに美を見出した。ただ、マリネッティと違うのは、その速度が<機銃掃射のうえを走りぬける>自動車のスピードではなかったことだ。それはもっと自然な、むしろ普通に歩く速度に近かっただろう。スポーツカーよりかは遙かに遅い、けれども、そのぶん軽やかさと親しみやすさが、ムナーリにはあった。芸術運動としての未来派が消滅したあともブルーノ・ムナーリが良質の仕事を続けていけた理由は、おそらくその軽やかに歩く速度にあったんじゃないかと思う。
代表作、と言われてすぐに具体的な作品を思い浮かべることが難しい人、とわたしは書いた。なぜそうなのか、おそらくそれはムナーリが「結果ではなくプロセスの人」だったからじゃなかろうか。できあがった作品をただ静かに眺めるのではなく、ページをめくっていく、何かを動かす、その動作の連続性のうちにこそムナーリがいる。ブルーノ・ムナーリという人はそういう作家だったんじゃなかろうかと、会場を出てからしばらく考えていた。
* * *
ムナーリの1970年の作品に『祖先の存在』という絵がある(写真左)。会場でこれを見た瞬間わたしは「あ」と小さく叫んでいた。ソール・スタインバーグ中期のタッチにそっくりじゃないかと思ったのだ。試しにスタインバーグの『MASQUERADE』という写真集から一枚かかげておく(写真右)。なにも剽窃だとか盗作だとかいう話に持っていきたいわけではなく、感性というか目の付け所というか、あんがい共通している部分があるんだなあという風に感心していたのだ。
生まれも育ちも、仕事上の活躍の場さえもまったく異なっていた両者のあいだにおよそ接点はなかったと思われるので、無理にこじつけるなら「ふたりは同じ地球上で同じ時代の空気を吸っていた」くらいしか思いつかないが、なんにせよ面白いものである(ただし、とはいえ雑誌などでそれぞれ名前や作品を見知っていた可能性はかなり高いから、完全に偶然の産物だと言い張るつもりも毛頭ない。わたしとしてはどっちだっていいのだ。ちなみに言えば、スタインバーグのMASKシリーズは1959年から1965年にかけて多く制作されている)。
2008 07 01 [design conscious] | permalink
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