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ディアギレフをめぐるわりとどうでもいい話

  

Diaghilev_book

 
●ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代(上)
 リチャード・バックル著/鈴木晶訳 
 リブロポート 1983年5月15日初版
 ISBN4-8457-0089-1
●ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代(下)
 リチャード・バックル著/鈴木晶訳 
 リブロポート 1984年4月24日初版
 ISBN4-8457-0115-4
 装幀:三嶋典東
 
 前回のエントリでもちらっと触れましたが、《モダン・エイジの芸術史》タイムライン(※ニフティ・タイムラインは2011年6月30日14時にサービスを終了)を作ろうと思い立った直接のきっかけになったのがこの本。本屋さんで何度か立ち読みしたことはあったんですがなにせ高い本(上巻4800円、下巻4000円)&2段組の文字がぎっしりしかも2巻本。ずっと敬遠していたんですが、最近になってどうしても読みたくなって、amazonで中古本をゲット。古本でとはいえ思いのほか値が張っていて、結局定価よか高い買い物になってしまいました。
 さて、とにかく情報量が多いので、内容をしっかり理解しながら読み進めようとするとたいへんです。この本専用の人物事典が欲しいなあ、と何度思ったことやら。
 
 
 下巻264ページに、こういう記述があります。1928年の話です。
5月29日、パリで、ドゥケーリスキーはディアギレフとプロコーフィエフをオペラ座に連れていった。ドミートリイ・チョームキンがガーシュインのピアノ協奏曲を演奏したのだが、ディアギレフは首を横に振り、「いいジャズだが、出来そこないのリストだ」と評した。プロコーフィエフの方は感動した。

 ほお、ディアギレフはガーシュインも聴いてたんだ…と思って、ガーシュインの伝記を書棚から引っぱってきました。そちらの方にはどう書いてあるかというと…。
5月29日、パリ滞在も終わりに近づいた頃、ジョージの曲を集めたコンサートがもう一つ開かれた。ピアニストのドミトリー・ティオムキン——後にハリウッドで映画音楽の作曲家として名をなした——が、国立オペラ座でヨーロッパで初めて<ヘ調の協奏曲>を演奏したのである。(中略)スタンディング・オヴェイションとなり、パリの批評家はこぞって賞賛したが、聴衆の中にいた名士たちの評価は、それほど肯定的ではなかった。プロコフィエフは「32小節のコーラスの連続というだけの、まとまりのない曲である」と不満を述べ、ロシア・バレエ団の興行主であるディアギレフは「ジャズとしてはいいが、でき損ないのリストである」と表現しているが、ジャズもリストもどちらも的外れである。(pp.195-196)

Gerswin_book 引用したのは『ガーシュイン 我、君を歌う』イーアン・ウッド著/別宮貞徳訳、ヤマハミュージックメディア/1998年7月20日初版、ISBN4-636-20948-6、中井辰也装幀、より(写真左)。ディアギレフのセリフはいいとしてプロコフィエフの評価が正反対になっているのは何故なんでしょうねえ。
 それよりも、ガーシュイン本ではその前の段落が気になります。このコンサートより少し前の出来事なんですが、
<ラプソディー・イン・ブルー>はガーシュイン一行が行くところ、どこにでも付きまとう。四月初め、ジョージのために開かれたパーティーでは、パリの文化人が大勢居並ぶなか、<ラプソディー>のピアノ版を弾いてくれないかと頼まれた。客の中に、有名なロシア・バレエ団の振付師兼ダンサーであるアントン・ドーリンがおり、ジョージのピアノを聴いて、即座にこの曲をもとにバレエを創作しなければと思い立った。(p.195)

 ドーリンはわずか2週間でこの仕事をし、ガーシュインは4月16日にシャンゼリゼ劇場での初演を観ているとありますが、作曲者本人の感想までは書かれていません。
 
 ところがこの件、バックルの本には一切記述がありません。上の書き方だとまるでロシア・バレ団(バレエ・リュス)がラプソディー・イン・ブルーを演じたかのようにも受け止められますが、バレエ・リュスの公演記録にはその事実はありません。しかも、ドーリンは確かにバレエ・リュスのダンサーでしたが(24年の『青列車』などが代表作)、「ドーリン振付」とクレジットされているバレエ・リュス作品も存在しないようです。ということは、この公演はドーリン個人の企画だったんでしょうか。少なくともディアギレフはこの舞台は観ていないと思われますが、このあたりは、アントン・ドーリンの伝記でも探してみないとわからないことではあります。
 
 
 同じような話はいくらでも出てきます。バックルはなまじ膨大な資料をもとにして、日付までこと細かに書いただけに、逆に「書かれていないこと」が気になってしまうのですね。
 
 * * *
 
 上の話の1年前、1927年4月に上演された『牝猫』という作品では、舞台美術にロシア生まれのナウム・ガボが起用されます。このひとは彫刻家で、ロシアを水源地として1920年代のヨーロッパに広がった「構成主義」の立役者のひとりです。バックルはこう書いています——。
ディアギレフは1924年の秋と1925年の冬に、ベルリンのロヒターフェルデにあったガボのアパルトマンで彼といろいろ語り合ったが、そのときにガボにバレエのデコールを依頼するという話が出た。ダダイスト仲間のデュシャンとツァラはガボに、ディアギレフには用心しろと警告していた。彼らはとにかく「芸術」は終わったと考えていた。だがガボは違った。(中略)ガボがこの仕事を引き受けたのは、ひとつには弟のアントンを経済的に援助するためだった。そのためガボは、デコールを彼ら二人の共作とするよう主張していた。(同上、p.246/太字は引用者)

 「弟のアントン」はまちがいで、ただしくは兄。アントン(アントワーヌとも表記)・ベヴスナーは画家で、当時はガボの方が名前が売れていたようです。
 それはいいのですが、上の引用文中、太字にした箇所がわたしにはとても気になります。ガボに向かってデュシャンとツァラが「ディアギレフには気をつけろ」と言った…これ、ホントなのかしら?
 
Inter_constructivism わたしはガボについてほとんど何も知らないのですが、この本の中に彼のことがいろいろ記されています(写真右=『国際構成主義 中欧モダニズム再考』谷本尚子著、世界思想社/2007年4月10日初版、ISBN978-4-7907-1247-3、装丁者名記載なし)。同書には<ガボとペヴスナーはいかなる「イズム」にも抵抗し、自らを構成主義者とみなしていなかった(p.35)>とあります。兄弟は1917年から22年のあいだモスクワの美術学校で教師をしていたので、当時のロシア芸術界の最先端だったロシア構成主義もよく知っていたはずですが、そういう動きとはどうやらいくぶん距離を置いていたようです。ただし、兄弟が1920年8月5日に出した「リアリスティック宣言」は、のちに(ロシア本国よりむしろ)ヨーロッパ各国の構成主義に大きな影響を与えました。

 この本は構成主義について書かれたものなので、ガボも構成主義者として描かれています。一方、バックルはガボをダダイストと見なしています。ダダと構成主義は一時期とても近い関係にあったし、上にも引いたようにガボは主義やら派閥などにはあまり関心がなさそうなので、そのあたりはどちらでもいいのかもしれません。ただ、時代的に言えば、ガボが舞台美術の制作にとりかかった1926年の時点では、ダダの方こそとっくに「終わっ」ていたはず。
 
 ディアギレフがまだガボに出会う前の1923年7月6日、パリで「ひげの生えた心臓の夕べ」なる催しが行われました。ツァラやジャン・コクトーの詩の朗読、エリック・サティやイーゴリ・ストラヴィンスキーのピアノ曲、ハンス・リヒターやマン・レイの映画、ダリウス・ミヨーやリジカ・コドレアーノのダンス、そしてツァラ作の三幕物の演劇など、もりだくさんのステージです。ディアギレフ視点でいうと、ここにコクトーやサティはともかく、ストラヴィンスキーの名前まで出てくることにちょっと感動しますが、この大作曲家はロシア・アヴァンギャルドの文脈でもダダの文脈でもたいへん重要な人物として描かれている、ほとんど唯一のひとです。彼を売り出したのはディアギレフなので、もちろんバレエ・リュスの物語の中でも主要な役割を演じています。実はストラヴィンスキーこそ、1920年代のキーパーソンなのかも。
 …話を「ひげの生えた心臓の夕べ」に戻すと、この催しはアンドレ・ブルトン一派の妨害にあって大混乱のうちに幕となり、以後パリでダダの催しは行われません。「この日をもってパリ・ダダは死んだ」とされています。重ねて言いますが、ガボとディアギレフが出会う以前の出来事です。
 
 一方、1924、5年頃のマルセル・デュシャンの方はといえば、この頃には既に実制作をほとんど放棄していて、チェスに夢中になっていた時代です。ニューヨーク暮らしをやめてパリに戻ってきましたが、

デュシャンは、すでに現役作家ではなかった。(中略)その年のサロン・ドートンヌの審査員は引きうけたものの、おおいに活況を呈する当時のパリの芸術界とはかかわらないように心がけた。前年にダダが崩壊して流行物好きを寂しがらせたが、一時の真空状態はディアギレフのバレエ団やスウェーデン・バレエのすばらしい公演、六人組の現代音楽のコンサート(中略)等によってたちまち埋めあわせがつく。(『マルセル・デュシャン』カルヴィン・トムキンズ著/木下哲夫訳、みすず書房、2003年1月6日初版、ISBN4-622-07020-0、p.258)

 このデュシャンの伝記本には、ガボが一カ所だけ出てきます。「なぜ絵をもう描かないのか」とガボが尋ねたということですが、いつのことなのかははっきりとは記されていません。1930年代以降のことかもしれません。 
 さらに言えばツァラとデュシャンの関係もよくわからない。両者とも我が道を行くタイプだからでしょう、面識はあっても一緒になって行動を起こした記録はほとんど見つかりません。21年の春、ツァラがパリで企画したダダ展にデュシャンにもなにか出品してくれるよう頼んだがデュシャンは断っています。逆にデュシャンはツァラに事業話を持ちかけますが(<金属製の小さな鎖にDADAの四文字を付けて、一つ一ドルで通信販売しようというのである>(同上、p.250))、このプランは実現していません。
 
 長々と書きましたが、つまるところ、わたしが引っかかるのはこういうことです。
 仮にディアギレフがガボに依頼したのが1925年冬だとして、ベルリンに住んでいたガボが、パリのツァラとデュシャンに「わざわざ」相談するだろうか?そして、その二人は「わざわざ」ガボに警告したんだろうか?
 
 実際の制作は1926年夏、パリ北駅ちかくにあったアントンのアパルトマンに泊まり込んで作られたそうですから、そのときの話かもしれません。「わざわざ」相談したんじゃなく、たまたまどこかで出会ったときに「最近どうよ」「いやー、ディアギレフから仕事頼まれちゃって」「ええー、そんなの引き受けんなよ、だせーな」「いやー、でも今カネないんで」「まあいいけどさ、せいぜいダマされないように気をつけなよ」みたいな会話だけだったのかもしれません。あくまで想像ですが。
 バックルは生前のガボに会って取材しているようなので、<ツァラとデュシャンから警告を受けた>話はガボから直接聞いた話なんでしょう。とすれば必要以上に「話が大きくなっている」可能性だって考えられます。いずれにせよ、わたしには本当のところを知るすべはないんですけど。
 
 バックルが言うような「警告」というほど大げさなものではなかったのじゃないかとわたしが考える理由は、ツァラもデュシャンも、ディアギレフとバレエ・リュスにはさほど関心がなかったのではないかと思えるからです。じっさい、ガボの舞台が上演されたときのダダイストたちの反応は、前年の1926年にマックス・エルンストとジョアン・ミロが《ロミオとジュリエット》の美術を担当したことに腹を立てたルイ・アラゴンとアンドレ・ブルトンが公演を妨害したのと違ってなにも起こらず、スキャンダル(=ディアギレフにとっては宣伝)にもならなかったので拍子抜けした、とも伝えられています。
 
 
 ディアギレフは他にもユトリロやマティス、ブラックやルオー、あるいはドランやデ・キリコなど、21世紀の現代でもなお人気の高い画家たちにも舞台美術を依頼しています。どの作家にとっても、それぞれのキャリアの中ではそれほど大きな出来事ではなかったかもしれませんし、じっさい、近代美術史のなかでそのことが大きく取り上げられることもありません(それに特化した展覧会があったらぜひ観に行きたいですが)。
 しかし、ツァラとブルトンの対立に象徴されるような<イズム>や<主義主張>の権力争いに巻き込まれることなく、というよりそれらの全てから超絶して、ただ自分が良いと信じた作家に次々と仕事を依頼し続けたディアギレフの方が、一枚も二枚も上手だったような気がしてなりません。
 
 * * *
 
 以上、ディアギレフの側からも、ガーシュインやガボの側からもどうでもいいような、ささいな話に延々とこだわってみました。どうでもいい話ではありますが、同時代の空気というか雰囲気を少しでも感じたいのと、本に書かれたことが本当に正しいことだったのか自分なりに検証してみたかったんです。とはいえ、こんな細かな話までタイムラインに載せることもできず、しょうがないのでブログの記事にしてみた次第。
 
 で、その肝心のタイムラインとやらはいつになったら公開するのかって? え、えーっとぉ…。

2009 08 08 [dance around, design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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