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クレーの<歌曲>

 

Mojie

●パウル・クレーの文字絵 アジア・オリエントと音楽へのまなざし
 野田由美意著/アルテスパブリッシング刊/2009年5月初版
 ISBN978-4-903951-17-1
 装丁:下川雅敏
 
 パウル・クレー(Paul Klee、1879ー1940)の作品はしばしば「音楽的」と言われている。父親のハンス・クレー(1849年生まれで、亡くなったのがパウルと同じ1940年)が音楽教師なので、音楽的に恵まれていた環境に生まれ育ったのだろう。そういえば彼の妻もピアニストだった。
 この本は、クレーの初期、1916年から21年にかけて描かれた文字(言葉)を主題とした作品群「文字絵」をとりあげ、その作品背景と成立についてくわしく考察したものだ。著者によれば「文字絵」を意味するドイツ語〈Schriftbild〉は1921年作の2点の作品タイトルにだけつけられたものだが、他に同じ傾向の作品が8点あり、計10点を「文字絵」としてカテゴライズしてよいという。
 比較的若い頃の作品だから、と言っていいのかどうかわからないが、晩年のクレー作品に特徴的なシンプルで大らかな筆遣いとはことなり、これらの文字絵はいずれもとても繊細だ。中間色をセンス良く配した画面はメランコリックな詩情もたっぷりで、その色遣いを追っていくだけでも楽しい。
 さきにクレーを音楽的だと書いたが、ことばが主題のこれらの作品群はさしずめ「歌曲」になぞらえてもいいかもしれない。では、クレーはここで何を「うたって」いるんだろう?
 
 とはいえ、わたしはドイツ語などちんぷんかんぷんだ。もちろん、これはまずなによりも「絵」なのだから、書かれている文字の意味が一切わからなくともかまわないとは思う。異国のことばで歌われるうたの意味がわからずとも、聴いていて心地よい、面白いと感じることなどいくらでもある。それと同じだ。歌詞の意味を知らないままその歌に酔うことは邪道なのかもしれないが、それもまた作品受容の一形態ではある。ま、表現されたモノから背景の意味や文脈やらを切り離して作品それ自体だけを独立させる、という取り扱い方は近代以降の悪しき習慣だと言われてしまえばぐうの音も出ないのだけれども。そういう意味でも、クレーの「文字絵」にいったい何が描かれているのか、を詳しく解説してくれる本書の存在はまことにありがたい。
 
 本書は五つの章から成る。第一章は「文字絵」に至るまでの前段階として、クレーがジャポニスムやオリエンタリズム、そして当時流行していたダンスに関心を抱いていた様子を描いている。クレーは1912年11月にミュンヘンでバレエ・リュス公演を観たと本書では述べているが、注記にその具体的な演目まで記されているのには感激した。パリが中心だったバレエ・リュスにとってドイツでの公演は所詮「地方巡業」であり、バックルによる詳細なディアギレフ伝記本でさえもこういう巡業公演にはあまり触れられていないからだ。バレエ・リュスの1912年と言えばなんといっても『牧神の午後』スキャンダルの年だが、同年のミュンヘン公演では演じられていないことをここで確認できた。
 …話が逸れた。続く第二章から第五章までが、主題である「文字絵」についての分析である。1916年の文字絵では中国の王僧孺というひとの詩(のドイツ語訳)をモチーフにしているところから彼の東洋への関心を探り、1917年の文字絵の主題であるナンセンス詩からはダダや未来派との関わりを論じ、1918年と21年の文字絵では父ハンスとの関係や、晩年に至るまで画家の関心のうちにあったと思われるエロスについて述べられている。どの章を読んでも刺激に満ちているのだけれども、クレーのような作品世界——つまり、現世的というよりもどこか彼岸を想わせる詩的で抽象的な世界——であっても、同時代の社会現象や芸術の流行とは無縁ではいられないのだということがよく分かって、たいへん面白かった。もっとも、この時代のクレーは1916年から18年まで第一次世界大戦のための兵役についていたし、画家としてもようやく注目を集めはじめる頃だった。世間の動向に無関心でいられるはずもない。この本は、あるひとつの絵画作品が生まれる際の成立史と読んでも面白いし、若きクレーをめぐるエピソード集として読んでも楽しいだろう。もとが論文だけに堅い本ではあるけれど、豊富な資料をもとにクレーを読み解いていくプロセスはとてもスリリングである。
 
 カラー図版も多い本書だが、残念なことにいくつかの図版が汚い。とくにひどいのは87ページのトリスタン・ツァラらによる同時進行詩『提督は借家を探している』のモノクロ図版で、画像解像度が印刷精度にまったく追いついていない粗いものだった。これでは1ページの半分を使ってまで掲載する意味がわからない。こういうのは著者の責任というより編集サイドの問題なのかもしれないが、もうちょっとどうにかならなかったんだろうか。
 

2009 09 12 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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